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日記779


シャフツベリは、人を畏怖させるものとしての宗教に懐疑的で、次のように語る。「閣下、要するに、私のみたところ、宗教を陰鬱に扱うことによって、宗教がこのように悲劇的なものとなり、事実、このように多くの暗い悲劇を現世にもたらしているのです。」そしてシャフツベリは、トマス・モア、シェイクスピアと同じ英国人らしく、ユーモアの効用を説く。
「上質のユーモアは狂信に備える最善の防衛手段であるだけでなく、敬虔と真の宗教の最善の基礎なのです。」

 

上智人間学会『人間学紀要 40号』、五十嵐雅子「シャフツベリの思想に見る寛容」(pp.131-132)より。調べものの途中でたまたま見つけた論文。なんとなく気になり、シャフツベリを検索してみると、12人いてビビった。イギリスの伯爵位として、代々受け継がれている名前らしい。引用中のシャフツベリ伯爵は第3代(1671-1713)。 

個人的な直感だと、宗教とユーモアは相容れない気がする。それを「敬虔と真の宗教の最善の基礎」と説くシャフツベリなる人物に興味が湧いた。きょうの発見。あと、前々から「寛容」という概念にも興味がある。しかし、シャフツベリの邦訳はないのね。この論文は「学術情報リポジトリ」からpdfでダウンロードできる。 


シャフツベリは、宗教や政治においてのコモン・センスを語ることの困難さに言及する。「共通の」とは普遍性を持つ言葉であるはずなのに、何がコモン・センスであるのか、多数派(majority)が決めてしまうのであれば、今日コモン・センスであったものが明日は違うということになる。また、イギリス人やオランダ人にとってのセンスが正しいということになれば、トルコ人やフランス人のセンスは間違っているということになる、と彼は述べている。(pp.134-135)


宗教とユーモアは、この「コモン・センス」の捉え方において矛盾をきたすのではないかと感じる。言い換えれば、普遍性と相対性をいかに架橋するのか。ここに興味がある。これは何度も書いている、「みんな」と「ひとり」の問題と並行的に思う。結局いつもおんなじことを考えている……。ユーモアは基本的に少数派の武器だろう。

ちなみに引用した論文の著者である五十嵐雅子氏は、いわゆる「悪魔の詩訳者殺人事件」で犠牲となったイスラーム学者、五十嵐一氏の妻。「五十嵐雅子さんの単著はないかな」と検索してみたところ知った。単著はなかった。しかし訳書に、ロバート・クレイボーン『文字の誕生』(タイムライフブックス)というまたおもしろそうなタイトルを見つけたので、いつか読むリストに追加した。

 


 

「¥174,874」と書かれた紙が落ちていた。なんの値札なのか。やけに高くて半端だ。しかも手書き。値札ではなくメモか。税込なのか税抜なのか。はっきりしてほしい。不可解のぶんだけ目はひらかれる。


4月28日(水)

きょうの電車。『死ぬ気で自分を愛しなさい』という本を大学生くらいの若い女性が読んでいた。そんな愛さなくても……と思った。初老の男性が「サーモンだけ食ってパンとか味噌汁とかぜんぶ残した」と話していた。へんな組み合わせの食事だ。そうでもないか。



コメント

anna さんのコメント…
シャフツベリって名前は、高校の世界史の授業でならったようなかすかな記憶が。イギリスの政治家だと思ってたけど思想家なんだ。

しゃけとご飯とお味噌汁なら普通ですけど、パンに味噌汁ってのが変ですよね。ま、でも他になかったらそれでもありですけどね。(と、晩御飯をスナック菓子ですます時がある私がいうのも変ですが。)
nagata_tetsurou さんの投稿…
わたしはきのうシャフツベリを知りました。覚えたてほやほやでお届けしております。高校では日本史ばかり勉強していたんです。ほんとうは両方やるべきなんですよね。Wikipediaで第3代シャフツベリ伯爵は「イギリスの哲学者、政治家」とされています。両方やっているのです。

違和感の正体はパンですね。パンのせいで洋なのか和なのかわからなくなる。和洋折衷にしても中途半端です。なんでもいいんですけどね。スナック菓子は半年か年に一回くらいのペースで食べるとおいしさに驚きます。