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日記780


「ユーモアは基本的に少数派の武器だろう」ときのう書いたが笑いは単に伝達の方法であって少数も多数もないかと思い直す。「コモン・センス」との関係でいえば、きっと先に共通の基盤があってのち笑いが成立する。コモンが先で、ユーモアが後。こう整理したほうがすっきりする。きのうは寝ぼけていた。

今朝、風呂掃除をしながらだいぶ前に読んだK.デイヴィッド・ハリソン『亡びゆく言語を話す最後の人々』(川島満重子 訳、原書房)のエピソードを思い出した。カリフォルニアとネバダの境界に住むネイティブアメリカン、ワショ族の青年ダニーへのインタビュー。


 インタビューの最後に、英語よりもワショ語のほうが表現しやすいこと、逆に英語のほうが言いやすいことが何かあるかと訊ねた。英語にはない、ワショに特別な考えや見方ではないかと私は予想を立てていた。
 ダニーは躊躇なく答えた。「ジョークです。ワショ族の言葉でジョークを言うと、本当におかしくて、すごく生き生きと響く。でも英語に置き換えてしまうと、どこか違うんです。あとは、腹が立ったときかな、怒ったときは英語を使うほうがいいですね。僕らの言葉にはあんまり怒りの表現がないんです」p.308


笑いと帰属は深く関係していそうな気がする。わたしは笑うとき、ふいに自分が呼び出されるような、再帰的な感覚に捉われる。ジョークは呼び声にも似ている。だから「少数派の武器」という感覚も、あながちまちがいではない。と、ふたたび思い直す。……いつも場当たり的に書いている。

 



「少数派」「ユーモア」「呼び声」の脳内検索で思い出したのは外山恒一さんの政見放送だ。このパフォーマンスのポイントはいうまでもなく、さいごの「奴らはビビる。……私もビビる」にある。省察的なフレーズを挿入することで、「じつは話がつうじる人だ」と視聴者は安堵する。そこで笑いも生じる。

言い換えると「私もビビる」の部分だけ、ふつうの人になる。奴らはビビる、私もビビる、さらにいえば、これをご覧のあなたもビビる、とつたえている。つまり全員一致でビビる。みんなに共通の感覚を提供するひとことであり、ここが呼び声の入り口として機能している。目線が合い、はっとする。そして恋に落ちる……。みたいな構造。

「少数派」に呼びかけつつ、「私もビビる」だけは多数派の見方とも合致するのね。文脈が統合されて、「別世界の人ではない」と理解できる。片面だけではそれこそ片手落ちなのだ。このように、ユーモアは内輪を形成するだけではなく、うまく使えば人を呼び込む入り口にもなりうる。シャフツベリのことばをもういちど引こう。

 

上質のユーモアは狂信に備える最善の防衛手段であるだけでなく、敬虔と真の宗教の最善の基礎なのです。

 

「上質のユーモア」とは、対話の成立に資するユーモアのことだとわたしは思う。共通の基盤を成立させないことにはユーモアも成立しない。それだけに、ひらかれた視野が必要になる。視野が狭いと、森喜朗氏のようにおもしろくもなんともない失言となってしまう。

 


ねこのしっぽ。

 

 

4月29日(木)

きょうは終日、雨。介護施設の祖母と面会し、本を渡した。あたたかくなって、話しぶりが穏やかに変化したと思う。数ヶ月前は急に泣き出すこともあった。陽気のおかげだろうか。施設の職員さんにも感謝を告げて帰る。すこし安心した。

夕方にうたた寝。首を痛めた。

 


コメント

anna さんのコメント…
なんだろって思って見始めてしまった政見放送ですが、なんというか凄いですね。びっくりしてしまって最後まで見てしまいました。これってまじめにやってるんですよね。

最後の画像は拡大してねこのしっぽを探してしまいました。ほんまや~、ねこのしっぼだ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
主張はすべて大真面目だと思います。甲高い発声、抑揚のつけ方、身振り、まばたきの少なさなどは演技です。いつかのラジオで「あんな人いませんからね」とご本人が話していました。練習のたまものでしょう。外山恒一さんは著作もいくつかあって、ふつうに頭のいい人です。さいきんも、先月かな、百万年書房という版元から『政治活動入門』が刊行されました。

猫が隠れる前に焦って撮ったんですが、ちゃんとピントが合っていてよかったです。「駐輪禁止」の横に堂々と駐輪している感じもいいですね。新宿の路地裏。