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日記782


木肌がすこしあたたかいとき。そんな詩があった。高橋順子の。詩集を探したけれど、部屋のどこかに埋もれてしまったみたい。

手先が冷える寒い日には、木肌がすこしあたたかい。


ふと、まなざしをとらえる、日々の木洩れ日…。細くわらう声がする、秘かななみだは深く隠される。日常には宇宙の茫漠と条理がこだましているのだろうか。やがて聞こえてくる未来の鼓動に耳を傾ける詩集。

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いつか読んだ詩集。内容はすこしも思い出せない。記憶まで埋もれた。でも一篇だけ、タイトルを鮮明におぼえている。

木肌がすこしあたたかいとき。



 ところで眼球の3重の壁は、実はどれもが脳のつづきである。すなわち目玉というのは、脳の一部がブランデーの杯のように突出して鼻の両側のくぼみ(眼窩)に脂肪の座ぶとんをしいて顔をのぞかせ、外をながめているものと考えられる。


三木成夫『生命形態学序説 ―根原形象とメタモルフォーゼ―』(うぶすな書院、p.166)より。おもしろい。眼球は脳みその露出部。読みながらわたしは、潜望鏡をイメージした。潜水艦が海上のようすをのぞくように、体内を泳ぐ脳がにょっきり体外のようすをのぞいている。「目を合わせる」は「脳を合わせる」と言い換えてもけっして大げさではないのだ。

ここからは個人的な妄想だけど、ディスプレイもまるで目のようだと感じる。画面は見るものであり、見られるものでもある。わたしはいま目から目へ、脳の露出部から脳の露出部へ文字を打ち込んでいる。これは一方通行の作業ではない。打ったそばから見られている。目に浮かぶ、もうひとりとの対話が始まる。

画面に浮かぶ表象はすなわち、もうひとつの目に浮かぶ表象である。これはけっこう重要な感覚だと思う。「目に浮かぶ」とはいかなる事態か。見たいものは同時に、見られたいものでもあるのではないか。スマートフォンのディスプレイは何よりも饒舌に人の欲望を語る。脳の露出部そのもの。

『生命形態学序説』は生物学の本でありながら筆致が文芸的でたのしい。というか、三木成夫の著作はみんなそう。卓抜な比喩が随所に見られ、飽きない。そして壮大。遥かな話はいつまでも聞いていられる。


5月1日(土)

きょうは午前中、晴れ。午後から雨。午前は陽射しがあたたかく、午後は風雨がつめたかった。朝早く、布団とシーツを洗って干す。それから掃除。昼食にカレーをつくって食べる。食後、雨が降る前に洗濯物をとりこむ。よく乾いた。

夕方、いっとき雨がやんだので買い物に出る。スーパーの入り口でのひとコマ。「みんなママについてきてね!」「はーい」。そんな親子の会話に胸がいっぱいになる。こどもは三人姉妹みたいだった。帰りに木肌をさわってみた。すこしひんやりした。



コメント

anna さんのコメント…
眼球は脳みその露出部で外の世界を覗く「潜望鏡」をイメージって言うのは、面白い表現ですね。そう考えると、見たくないものには目を閉じて自分の体内に閉じこもっちゃうのも納得です。

以前の話しの中に載ってたボルヘスの『伝奇集』を買いに河原町BALの本屋さんに行きました。んで、間違えてボルヘスの「怪奇譚集」を買ってきてしまいました。まあ、これはこれで面白いですけどね。

nagata_tetsurou さんの投稿…
カタツムリの触覚みたいなイメージも浮かびます。にょろっと出てるの。生えてる感じ。脳から目玉が文字通り生えている。実態はきっと「キョロキョロ」より、「ニョロニョロ」なのです。

『怪奇譚集』も、それはそれでおもしろいです。ただ『伝奇集』とは翻訳者がちがうので、比較すると文章の雰囲気も微妙にちがうかもしれません。『怪奇譚集』は柳瀬尚紀の訳、『伝奇集』は鼓直の訳ですね。個人的には『怪奇譚集』のほうがとっつきやすいかなと思います。