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日記783




三木成夫の「眼球は脳のつづき」という指摘から、まばたきに関する研究を思い出した。人間は意味の切れ目でまばたきをするのだとか。動画のなかでは「共通の句読点」と言い換えられている。大阪大学の中野珠実准教授によるプレゼン。

「わかる」ないしは「わかろうとする」とき、人はまばたきをするのではないか。記憶を同期させている、ともいえそうか。中野准教授によると、まばたきの同期は円滑なコミュニケーションのために必要なものでもあるのだという。

「わかる」とは補うことだと思う。円滑なコミュニケーションの在り方はすなわち、円滑な補完関係の在り方でもある。凹と凸を組み合わせるように、お互いの話を適切に補い合えているか。まばたきはその確認機能を無意識に果たす。

文字のみでのやりとりで行きちがいが生じやすいのは、補完関係の確認(まばたきの確認)が身体的にできないせいだろう。文意をうまく補完できなかったり、逆に勝手な補完で勘違いしちゃったりする。読む人に目配せしながら「意味の切れ目」を文章上にきちんと置くには、そうとうな配慮が必要になる。

哲学者の東浩紀さんが以前、「多くの人は句点を適切に置けない」と話していた。文と文を明瞭に分割できていないのだと。日本語はとくにヌルっとしていて、切れ目がわかりづらい。やろうと思えば一文をどこまでもヌルヌルと書きつづけられる。

文から文へ。意味が割り切れていないと受け手が切れ目(まばたきのタイミング)を把握しにくい。句読点はまさに、まばたきそのものといって過言ではない。

息の長い一文を畳み掛けるように書いて「読ませる」作家もいる。そういう方法もある。しかし安易に真似をすると不恰好になる。いや、どうだろう。もしかすると人によって向き不向きがあるのかもわからない。わたしは短く切る向き。

書くことは意味を分かつことであり、同時に意味を分かち合うことでもある。句読点を「まばたきのマーク」と捉えてみると文章への意識もすこし変わってくるのではないか。書くときも、読むときも。どうでしょう。

ともあれ、視界の暗転と意味の切れ目が同期している事実は非常におもしろい。わたしたちは一瞬の暗闇で通じ合う。プレゼンの最後のほう、定型発達者と自閉症者のまばたき比較も興味深かった。まばたきと人間の認知機能は深く関係しているようだ。そう、眼球は脳みその露出部なのである。

まばたきしない人はこわい。何を考えているのかわからなくて。黒目や白目を見開いて微動だにさせない異形の者がホラーにはよく登場する。あれは思考がいっさい読めないからおそろしいのだろう。サングラスのかもす「不審な感じ」も似たようなものか。数日前にとりあげた外山恒一さんの政見放送も、たぶん意識的にまばたきを制限している。彼は自分の目を奪うことで、視聴者の目をも奪うことに成功した。

斯様にして、コミュニケーションは目に依存するところが大きい。ここから派生的に考えられることはじつに多い。歩行中、向かいから来る人とうまくすれちがえないとき、足ではなく目の挙動がもつれているのではないか。車の運転に不向きな人はアイコンタクトが苦手なのではないか。など。どっちも自分の悩み。ははは。

 

まばたきには「人間味」を感じる。ちょっとした無意識の所作にこそ、深い意味がある。こうした知見は義務教育の段階で教えてほしかったと思う。「目は口ほどに物を言う」ということばは文字通りほんとうらしい。じつは、口よりもずっと雄弁なのかもしれない。




5月3日(月)

きのうは眠くなって途中で更新をあきらめた。眠気に関してはあきらめが肝心だ。これは鉄則。眠いなら、いさぎよく寝るべし。眠気に勝とうと思ってはいけない。すんなり負けるべし。寝床で敗北を抱きしめるべし。

本日は晴天。陽射しが暑いくらい。夏が近づいている。電車のなか、モンスターハンターの話をえんえんしつづける若い女性ふたり組がいた。野暮用で夜9時過ぎごろ家路につく。帰り道は正月のように静かだった。駅のホームでマスク越しに接吻するカップルを見た。夏が近づいている。


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