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日記785


ねこのゆっくりとしたまばたきは愛情表現であること。これは先日とりあげた、人間同士がまばたきの同期によってコミュニケーションを図っていることと考え合わせるとおもしろい。ねこにかぎらず、もしかすると人間は動物ともまばたきでコミュニケートしているのではないか。そして動物もそれに応じているのでは。のでは。

京都大学霊長類研究所の調査によると、人間以外の霊長類のまばたきも社会的なコミュニケーションのツールとなっている可能性があるそうだ。おもしろいなー。異種間のまばたき交流に関する研究はないのだろうか。

まばたきの研究はまだまだ伸びしろがあると思う。多分野にわたって、さまざまな仮説が考えられる。というか、単に個人的な興味から期待してしまう。勝手にわくわくしているだけ、ともいえる。

非言語コミュニケーション全般に興味があるのよね。人間はことばの意味だけでコミュニケーションを図っているわけではない。あたりまえといえば、あたりまえの話。わたしは一要素に過ぎない「ことばの意味」を過大視しがちだから、非言語的なあたりまえの領域をもっと知りたいと思う。

隠されたウラ設定を知りたい、みたいな気持ちもすくなからずある。

 


路上の張り紙。

バカは痛みを感じないらしい。
チェ・ゲバラがこどもに遺した最後の手紙を思い出す。

 

世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です。


「バカは痛みを感じない」という含みも読みとれなくはない。張り紙のことばは戯れ言のようで、意外と深い。痛みはそう、「気づく」ものなのだ。胃痛に見舞われて初めて胃の存在が具体化するみたいに。痛みの感受によって初めて「世界のどこか」が具体化する。

 

 

5月5日(水)

木曜日かと思っていた。朝起きて「あれ?」となった。水曜日だった。曜日や日付の感覚は、とてもふしぎなものだ。ずれると生理的に気持ちが悪い。きょうは休日だった。だいたい家にいた。風がつよかった。雨が降りそうで降らない天気。近所の公園でひとりの女性がウクレレを爪弾いていた。

 


コメント

anna さんのコメント…
私は公園で座っていた野良ネコとまばたきでコミュニケーションを取ろうとして、こちらが目を閉じてあけたら、その間にどっかにいってしまいもういなかったという気まずい思い出があります。ネコは気まぐれ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
まばたきはタイミングが命ですね。最初に目がじっと合う場合は成功しやすいです。そのままロックして、ゆっくりまばたく。通じるとホントうれしくなります。目と目で通じ合う。「MUGO・ん…色っぽい」って感じです。