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日記789


5月13日(木)

「背骨コンディショニング」を試している。ダルビッシュから聞いた。あの、野球選手の。とりあえずYouTubeで「背骨コンディショニング」と検索してみたところ、ちょっと怪しい風采のおじさまがあらわれた。日野秀彦という、この人が創始者らしい。わりと好きなタイプの怪しさだ。

日野背骨矯正のチャンネルから適当な動画を選んですぐそのとおりやってみると、かなり効く。じわーっと体の熱が全身にいきわたるような。よさげな感触を得たので、自分なりに解釈しながらつづけてみようと思う。自分の体に添って、観察を絶やさないことがたいせつ。「体一般」は存在しない。受け取った情報はひとまず個体のスケールに落とす。

「自分の専門家は自分」ということばを思い出す。小瀬古伸幸『精神疾患をもつ人を、病院でない所で支援するときにまず読む本』(医学書院)より。

 

 精神疾患をもつ人を地域で支援する時の最終到達目標は、「自分の専門家になる」です。「自分の専門家になる」とは、良い時はどのような状態なのか、悪い時はどのような状態なのかを自分であらかじめ知っていて、言語化できることです。p.19


立場は関係なく、誰でも持っておくとよい視座だと思う。もちろん自分のすべてを自分ひとりで把握することはできないし、その必要もない。しかし、できるかぎり知る努力はしておきたい。体の状態はなにより、観察してみるとおもしろい。五体満足の「健常者」であっても感覚できていない部分や、うまく使えていない未知の余白がたくさんあるはず。それに、いつかは誰もが体に異常をきたすのだから、知っておけば「いつか」への備えにもなるだろう。

人は日一日と壊れていく。自分の壊れっぷりを観察しつづけることも、人生の楽しみのひとつではないか。いい感じにおもしろおかしくバカになっていけるといい。いい感じだといい。

そうそう。

「自分の専門家は自分」から、さらにもうひとつ連想が飛んだ。

 

 書くといっても、初めのうちならば他人の本を材料にして書くこともできるだろうが、いずれはその種が尽きるときが来る。そのときモンテーニュは、かれが一番知っているはずの自分という人間を本の材料に選ぶことを思い付いた。「それから私は、他のすべての材料がまったくなくなってしまったので、題材と主題として私自身を私に提供することにした。これは野蛮で、型破りな企てをもった、この種のものでは世界でただ一冊の本である」。pp.29-30

保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』(講談社学術文庫)。ミシェル・ド・モンテーニュはまさに歴史に名を残す「自分の専門家」だった。16世紀フランスの文人。彼の書いた『エセー』は自分を材料にした「世界でただ一冊の本」でありながらしかし、それだけにとどまらない価値を帯びている。

 

なるほど『エセー』は一個人の経験と思索の本である。しかしモンテーニュには、どんな人間のなかにも人間が持っているすべての性状が存在しているという強い信念があって、一人の個人を徹底して見極めれば、それは人間全体に通じる探求になると信じた。それゆえ『エセー』は、モンテーニュという個人が材料であっても、その個人を通して行われた普遍的な人間の探求なのである。p.30


「自分の専門家」も極めれば普遍的になる。ことばは「うつすもの」であり、人間は「うつし合う」生き物だとわたしは思う。まっさらに曇りなく自分をうつすことばがあるとすれば、それは曇りのない鏡のように他人をも然とうつし出すのではないだろうか。もはや自他の区別もわからなくなるほど、真率なことば。モンテーニュの『エセー』はそれにちかい。

「自分の専門家」はつまり、自分が体感する世界の専門家であり、自分をうつす他者の専門家にもおのずとなりうる。自分は自分だけではありえない。詩人の長田弘は『すべてきみに宛てた手紙』(晶文社)のなかで、こんなことを書いていた。

 

  わたしたちはともすれば、自分は自分だと言えば、それが自分であるというふうに思いなしがちですが、それはちがいます。わたしたちの自分というのは、むしろ自分でないものによってしか語ることができないものです。わたしたちの中にいる自分は、言葉をもたない自分です。あるいは、言葉に表すことのできない自分です。
 そうした無言の自分を、どんな言葉よりも雄弁に、もっとも的確に、もっともよく語ってくれるような親しい物、なじんだ物、懐かしい物、そうした物が何か。それがその人の、その人らしさそのものを顕わすものであるということ。ちょうど、死者があとに遺す形見とよばれるものが、その人のその人らしさを宿す物、その人の記憶をとどめる物であるように。p.42

 

やばい、最初の引用から「自分」の意味がまったく変わってしまったではないか。どうしてこうなった。「言語化」から「無言」へ。「生」から「死」へ、みたいな流れ。ちょうど「よく生き、よく死ぬために」って感じでいっか。ことばにする人も、ことばを持たない人も、生きる人も、死ぬ人も、ひとしく「自分」なのだった。死ぬのは他人ばかりともいうけれど。

というか、そもそも「背骨コンディショニング」の話だった。

がんばります。以上。



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