ふたたび養老氏の動画。改めてお話を聞いていると、かすれ気味のそっとした声質に惹かれる。ちょっとセクシー。あるいは、ことばを置く速度、語尾の落ち着き、話しながらひとりで笑う感じも。どうもわたしは声のふるまいを好きになる傾向がある。声フェチらしい。うすうす感じてはいたが、はっきりと意識できていなかった。
動画の前半は「おなじ」と「ちがう」について。「感覚的にものを捉えると、すべてはちがって見える」という。声の質感は固有の存在感をつたえる。容姿もみんな個性的。その一方で、わたしたちはおなじような話をする。「雨の日がつづきますね」「梅雨ですね」なんつって。言語は第一に、「おなじ」を基盤とするもの。
ことばは「うつすもの」であり、人間は「うつし合う」生き物だとわたしは思う。
と、数日前に書いた。これにもちかいお話だと思う。人間は「おなじ」を幻視する。ひとりひとりぜんぜんちがうのに、どっかしらおんなじだと思っている。隙あらば、おんなじにする。もしくは、される。かなりキマってる生き物だ。年中ラリってるといっても過言ではない。言語に酔っぱらっている。
「頭で考えたら人間はみんな平等です。感覚で捉えたらみんなちがいます」と養老氏は言う。ようするに、抽象と具体の乖離を語っている。はなればなれになりがちな抽象的思考の世界と具体的感覚の世界、この両者を縫い合わせるものがアートなのではないか。わたしの理解で短くまとめると、こんな内容。
要約から、似たような話を思い出す(幻視する)。たとえば、さいきん関心があって調べていたヴィルヘルム・ヴィンデルバントによる科学の線引き。
ヴィンデルバントは、なかんずく自然科学と文化科学(精神科学ともいう)の間の線引き問題にも努力を傾注した。自然科学は、法則定立的 (nomothetisch) な方法を用いる。つまり、自然科学は、その対象を普遍妥当的な法則を通して記述する。これに対して文化科学は、一回限りのもの、個別的なもの、そして特殊なものと関わり、個性記述的な (idiographisch) 方法をとる。
ヴィルヘルム・ヴィンデルバント - Wikipedia
なかんずく努力を傾注した人。
自然科学は「おなじ」を記述し、文化科学は「ちがう」を記述する。ともいえる。養老氏の話を加味するなら、アートは法則定立と個性記述の結節点。アーティストを名乗る人はたいてい、個性的なだけではない。世界に関する原理的な観察も行っている。
現代の文明社会は「おなじ」の発想に依拠するところが大きい。日々をできるだけひとしくする。人々は再現性に囲われて生きる。今日とおなじ明日がつづくように、と。
ひとつ前の記事で挙げた「人権」は平等を謳う。どちらかといえば、法則定立的な思考から立ち上がった「囲い」なのだ。人工的につくられたカキワリの自然法則みたいな。人間を「おなじ」とみなして秩序づけようとする。個人的な感覚で雑にいってしまえば理系っぽい。「ガッ」って感じの思想。理系は世界を「ガッ」ってつかまえる感じ(雑過ぎる)。文系は「ヌルッ」っと逃す感じ(謎過ぎる)。
合わせてキャッチ&リリース。なるべく両方の発想をいったりきたりできるといい。吸って吐く、食べて出す、読んで書く、生きて死ぬ、そんなサイクルをイメージしている。
「官僚機構は機械に置き換えればいい。人間だから腹が立つのであって、機械が官僚的にふるまっても腹が立たない」と養老氏は冗談混じりに話す。
腹が立つ理由はおそらく「おなじ人間なのだからわかってもらえるはず」みたいな淡い予測が無意識裡にはたらくせいではないか。「おなじ」が言語に依存する心性だとするなら、「おなじ日本語話者なのだから」と。
厳密には「おなじ日本語話者」なんていない。みんなそれぞれの環境に応じてすこしずつちがう。微妙な誤差があることによってことばが回転する、ともいえる。ちがうようでおなじようでちがうようでおなじようで……会話はだいたいこの繰り返しから成る。言語自体も誤差をのみこんで、すこしずつ変化していく。
異なるものはすべて同一である
同一なるものはすべて異なる
これら二つの命題の間を
汝の精神のなかで往復せよ
さすれば、まず二つは矛盾しないこと
ついで思考は同時に二つのことは考えられず
一方からもう一方へ動くものであること
一方にはその時があり
もう一方にもその時があり
一方を考える者は
もう一方も考える者であることを
理解するだろう
『科学者たちのポール・ヴァレリー』(紀伊國屋書店)に載っていた、ヴァレリーのことば。わけわからんなと思いながらも、おもしろみを感じてメモ帳に写していた。いま、すこしわかった気がする。養老氏の話とも似ている。0と1のあいだを往復せよ。法則定立的な思考と個性記述的な思考を往復せよ、みたいな。芸術の論理、ひいては生きて死ぬ定めの営為を説いているのかもしれない。
繰り返す日々はおなじようで、おなじではない。人間は世界を「おなじ風」にやり過ごす知恵を手に入れた。あんまりちがうと怖いから、できるだけひとしく。似たようなまいにちを繰り返そうと構築されたものが文明社会だった。しかし、どこまでいってもおなじにはならない。どうがんばっても、世界は変わっていく。
二時間経ったら 一晩あけたら
形が変わるほうが普通でしょ
コーヒーは冷めるし 細胞は入れ替わる
不安でしょうがないの 馬鹿みたいでごめんね
「ちがう」を語る声はちいさい。たいていそれは「馬鹿みたい」になってしまうから。おなじ夢、おなじ答えなら、おおきな声で言えるのに。
コメント
「人間だから腹が立つ」って言うのはその通りですね。
私は、嫌なことがなんかあったら「この人がもしも猫だったら」と考えます。そーすると猫に何されても怒る気にならないので「まあ、しょーがないや」って思っちゃいます。
養老さんの語る「われわれ」はクロマニヨン人まで入るそうです。めちゃんこざっくりしていますね。おおきなものさし。その一方で、トビケラの巣をひとつひとつ観察したりもする。科学的な分類ではぜんぶおなじ「トビケラの巣」とくくれるんだけど、じつは個体ごとにぜんぜんちがう。
人のことばも巣みたいなものだと思うんです。おなじ日本語話者でも、トビケラのようにひとりひとりちがうことばの巣をつくる。だから、とんちんかんだってわたしはまったくかまわないと思う。ちがいはちがいとして、すばらしい。答えはないんです。
たとえば、「この記事を読んでお昼に食べた海老天の味を思い出しました」というコメントを受け取ったとしても、一概に否定できません。そういうこともありうる。共感覚的な現象かもしれない。
というか、「意識はランダムになれない」と以前の日記に書いたように、そんなにとんちんかんになれないんです。「ちがう」けれど、かならずなにか関係がある。いや、関係をつくれる、といったほうが正確ですね。「ある/ない」だけではなく、そのあいだを橋渡しする。養老さんの講演に引きつければ、0と1のあいだに関係をつくる。これが芸術の論理なのかもしれません。
「この人がもしも猫だったら」というアイデアは、まさにちょっとしたあいだをつくる論理です。出来事のあいだを、猫が橋渡しする。関係をつくり変える。大袈裟にいえば、アーティスティックなお考え。笑