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日記795


 

 シェイクスピアの喜劇『お気に召すまま』(As You Like It)のなかで皮肉屋のジェイキーズが語る名文句がある。「全世界は舞台だ。そして男も女もただの役者にすぎない。各々に出口と入口がある。そして一人が一生のなかでたくさんの役を演じ、その幕は7つの時代からなる」p.147

 

高橋英光『言葉のしくみ 認知言語学のはなし』(北海道大学出版会)、9章「文は舞台である。主語、目的語は役者である。」の冒頭。このような比喩は文法にもあてはまる、という。

 

シェイクスピアをもじれば「文は舞台だ。そして主語も目的語も役者にすぎない。そして主語と目的語はたくさんの役割を演じる」となる。文という舞台を演出しているのはもちろん言葉の使い手であるわたしたちである。p.147

とてもおもしろい見立てだと思う。

 

文とは、ヒトの世界認識や思考の連続の一部を切り取ったものである。比喩的に言えば、話者・書き手(これを概念主体と呼ぶ)によって選ばれた舞台である。主語、目的語、その他の要素はその舞台のなかで演じる主役、準主役、傍役に相当する。p.155

舞台装置としての文。ジャンル関係なく、すべての文は舞台といえる。書くことはすなわち、一個の舞台を構築することにほかならない。

自分の文には、どのような主語が多いだろう。まず「わたし」か。それから「人間」「人類」「ヒト」「世界」などのデカい主語が散見される。どちらかといえば「わたし」よりも、「人間」を主役に据えていたい。つまり、「わたしたち」。

「わたし」なら、わざわざ言い立てなくとも勝手についてくる。画面にこびりついた、どうやっても洗い落とせない染みようなもの。どうにかして、きれいにぬぐい去りたい気持ちもすくなからずある。邪魔くさいから。落として、すっかり透明になりたい。死ぬってそんな感じなんじゃないか。

「死ぬ」までいかずとも、読み書きは「わたし」を不断に変換していく。こすられて薄く広がる。「生きるため」という触れ込みの本は多いけれど、個人的には真逆の感覚でいる。そんなにわたしは、わたしを生きなくてもいい。刻一刻いなくなるために、わたしではないものたちのために、ことばがある。できるだけ遠くへ行きたい。日々、ちゃんと死んでゆきたい。



「生きてたってしょうがないね」と祖母はよく漏らす。そうだね、わたしも毎日そう感じる。でもいったい、何が生きてるんだろうね。「生きてる」ってどういう状態を指すのかな。そんな話は興味ない? ないか、そう。

いつか交わした会話を思い出す。なんでもいいから疑問を呈して、その問いにこだわってみると、あんがいおもしろいかもしれない。と伝えたかった。しかしこういうことも習慣にしていないと、年を重ねてからではむずかしいのだろう。問いはどこからでもひらける。そして、どこへでもいける。どこでもドアみたいなものだと思う。手軽で、しかも一生を費やせる。おすすめの暇つぶし法。

5月26日(水)

皆既日食だと聞いた。でも、すっかり忘れて過ごす。曇り空だったので、おそらく見えなかったにちがいない。今夜は涼しい。すこし散歩した。夜風が肌にやさしく触れる。湿っぽい空気。明日は雨降りらしい。

 

 

 

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