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日記796


近代印刷文化の中の文学は、個人が(ひとりで)書いたものを個人が(ひとりで)読む、しかも沈黙のうちに、という伝達方法を主流として育ち、受け継がれてきた。だが人の主観性=主体性とは、「ひとり」がつねにすでに多数により構成されている以上、その文学における孤独は見せかけのものにすぎず、文学においては結局、見かけ上のひとりの作者(じつは多数を母胎とするつかのまの代表)が見かけ上のひとり(じつは多数を母胎とするつかのまの代表)の読者によって読まれているという事態が生じている。そうでなければ、じつは何も理解できないのだ。生物学的個体・社会学的個人を超えた、言語意識における個は、けっして孤立することがない。p.238


佐藤=ロスベアグ・ナナ 編『翻訳と文学』(みすず書房)に入っている管啓次郎の小論、「詩、集合性、翻訳についてのノート」より。「つかのまの代表」という表現がおもしろい。いたずらに拡大しちゃえば、わたしたちは「多数を母胎とするつかのまの代表」として生きているのかもしれない。ひとりの主体というより、実質は「代わり」だと考えたほうがわたしはしっくりくる。つまり、どんな行為も発言も何かをrepresentしている。それによって相互に補い合えるしくみになっている。同時に、排除し合えるしくみにもなっている。

ラッパーは口癖のように「レペゼン」を叫ぶが、すべての発言にレペゼンはあらかじめふくまれているのだと思う。人のことばを解釈するときは、第一に「この人は何を代表しているのか?」という問いを置くと話が見えやすい。これはいつか書いた、帰属を探る発想とおんなじ。ことばと立場(その人が置かれている状況)は切り離せない。我ながら一本調子というか、いつも似たようなことばっか考えている……。

では、わたし自身は何を代表してこんなものをうだうだ書きつづけるのか。強いていえば、「読む人」かもしれない。本にかぎらない広い意味で、世界をこんなふうに読んだよと。きょうは夜風が心地よくて、窓を全開にしている。現在の状況を読んでみた。読んだから書いた。読まれた、でもいい。ことばに読まれた。夢に見られた。それだけなのだと思う。ひたすらに。

 


 

「読んで、書いて、読んで、書いて、」
 気持ちよく本書をすでに読むことができているのなら何よりですが
「読んで、書いて、読んで、」
 少なくともここまでこのように読んでこられているのでしたら、読者さんにもぜひ「体験のことば」を……
「書いて、読んで、書いて、」p.251

松波太郎『本を気持ちよく読めるからだになるための本 ――ハリとお灸の「東洋医学」ショートショート』(晶文社)の、「創作するカラダ――あとがきに代えまして」より。きょう図書館で借りた(あとがきから読んでいる)。吸ったり吐いたり、食べたり出したり、体がサイクルを描くように、思考にもサイクルがあるのだと感じる。というか、思考も立派な体の一部。

読んで書く。その間にはつねに異物の侵入が挟まる。夜風が部屋に侵入する。バイクの通る音が侵入する。羽虫が侵入する。そのたび、ことばも五感をめぐる。あなたがわたしに侵入する。無意識に処理しきれない異物感が意識的な処理(読み書き)を可能にしている。体には絶えず異物が通過しつづける。

吸って吐くために空気が必要であるように、食べて出すために食料が必要であるように、読んで書くあいだにも何らかの異物が必要なのだと思う。そして、わたしにとっていちばんの異物はなにより、わたし自身なのだ。


 何者かの突然の侵入によって、慣れ親しんだ風景が異風景になる。
 今まで「普通」であったことが、否定され、改めさせられる。移住したのは「侵入者」であるが、「侵入者」が強者であれば、もともとその地にいた者たちは、生存のために、強者への擬態を余儀なくさせられる。慣れ親しんだ風景が異風景になるということは、しかしCovid-19や大地震、病や事故、さまざまな突然の環境や身体の変化によっても起こり得るだろう。親しげな微笑みが憎しみや恐怖心に変貌するとき、潜在意識の中で当然だと思い込んでいたことが全くあたりまえではないと気づくとき、本質とは何かを疑いはじめたとき、人は「私は何者か」と問い始めるのではないだろうか。その問いの答えを探すために、人は新たな翻訳をはじめる。p.231


ふたたび『翻訳と文学』の、佐藤=ロスベアグ・ナナ「証しの空文――鳩沢佐美夫と翻訳」より。「何者かの突然の侵入によって、慣れ親しんだ風景が異風景になる」。ここを読んでわたしは、目覚めの瞬間を想起した。ごくありふれた、毎日のこと。眠っていたところを、何者かの突然の侵入によって起こされる。意識が戻る。そこから先、すべてが異風景となる。「私は何者か」。この世は結局なんなのか。一向にわからない。よそよそしい、おかしな風景ばかり広がる。

 

『本を気持ちよく読めるからだになるための本』に、前の借り主の貸出票が挟まっていた。この本のほかに『新説宇宙生命学』という本を借りている。おもしろそうなのでとりあえず予約した。偶然のレコメンド。図書館の出口に、また貸出票があった。『花森安治選集』を借りた人の落としもの。

ちょろっと立ち寄った本屋では、若い男性がひろゆき氏の『ラクしてうまくいく生き方』を買っていた。「きっとうまくいくよ~」と思いながら横目で顔を一瞥すると、知り合いだった。目が合ってしまい、しょうがないから直接つたえた。「ラクしてうまくいくよ~」と。もしかしたら恥ずかしい思いをさせたかもしれない。すこし反省する。



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