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日記797


 

くま。

 

 

きのうはカッコつけて、「読む人」を代表してる、みたいなことを書いたけどそんなんじゃないと思い直す。そんなんじゃない。ではどんなんかというと、手持ち無沙汰なおじさんです。すっごい手持ち無沙汰なだけです。持て余してる。ここは物置き小屋。たとえるなら、道で拾ったいい感じの棒をコレクションする場所。「これ、なかなかいい感じの棒だよね」とえんえん書いてるだけのブログ。いらないのに、癖で拾ってきちゃうんだからしょうがない。

でもそういうブログがじっさいにあったらおもしろそうかも。比喩ではなく、道で拾った棒について淡々と論評しつづけるブログ。そういうものにわたしはなりたい。キャッチフレーズ風に書くと「手持ち無沙汰で、そぞろ歩き」みたいな。無沙汰で、そぞろ。ぶらぶらしてる。まるで睾丸のように。 

国文学者の吉田精一は『随筆入門』のなかで小杉放菴の随筆を「これはたしかに睾丸をぶら下げている人間の文章である」と評したそうだ。岡崎武志と山本善行の『新・文學入門』(工作舎)に書いてあった。原典には当たっていない。よくわからんが、おそらく褒めことばなのだろう。

これを読んだとき、わからないなりに、わたしもちゃんと睾丸をぶら下げている人間として文章を書きたいと思った。じっさいぶら下げているわけだし。あんまりカッコつけているようじゃいけない。

睾丸というのは、通り一遍に解すれば「不如意なもの」の象徴だろう。広い意味で、どうにもならんもの。いらないのに、いい感じの棒を拾ってきちゃうような性癖。いま「不如意」と書いて思い出したのは『ブコウスキーの酔いどれ紀行』(河出文庫)だ。ブコウスキーという作家は、たしかに睾丸をぶら下げている。町田康の解説を引こう。

 

 ブコウスキーは、人生が失敗の連続であり、なにごともぜったいにうまく行かないと定めたうえで、作家である自分という存在を使っておもしろがる、という姿勢を貫いている。
 このことが通奏低音としていつも響いているブコウスキーの、しかも紀行であるのだから面白くないわけはなく、カフェに行こうとすれば場所が分からず漸くたどり着いたら店が違っている、或いは閉まっている。バス停はない。窓口に行けば必ず手違いがあって、言語はほとんど或いはまったく通じず、荷物は転がり落ち、人違い、勘違い、手違い、行き違いが交錯して、爆笑、哄笑、挙げ句の果てに生きる歓びのようなものまでが胸中に湧く。脳内に響く。p.313

 

「睾丸をぶら下げている人間の文章」とは、このような姿勢に貫かれたものではないか。吉田精一の文脈は措くとして、わたしはこれだと思う。やぶれかぶれでどうしようもない間違いだらけの果てに「生きる歓びのようなものまでが胸中に湧く。脳内に響く」。これこそ人生がときめく睾丸の魔法である。

自分がそんな文章を書けるとは思わない。しかし念頭にはあったほうがいい。頭からぶら下げておいたほうがいい。文章は油断すると、理想を描いてしまいがちになる。それは良い性向でもあるけれど、理想ばかりでは傍から見ると気持ちが悪い。そこへの警戒心は絶えず持たないといけない。もういちど書こう。理想ばかりでは気持ちが悪い。

心身ともに、間抜けな睾丸をぶら下げておく。

 

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