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日記800


高橋 誰かがあなたがやったような隠喩としての癌や結核の研究を日本についてやらないといけませんね。あるいはあなたの説を批判するような形の研究が日本から出てくるかもしれません。

ソンタグ 研究じゃありません。思考と感受性の問題です。バルトだって、目と頭を精いっぱい使ってあの本を書いたので、あれは「研究」じゃないでしょう。一介の旅行者も、多くのことを発見できるものです。


高橋康也対談集『アリスの国の言葉たち』(新書館、pp.330-331)。『隠喩としての病い』は「研究」ではないと反発する、スーザン・ソンタグ。79年の対談。「思考と感受性」、わたしの理解で言い換えると「客観ではなく主観の問題」といっている。さらにいえば、魂の問題だと。彼女の文章を読むうえで、とても参考になる発言だ。本質的、とさえ感じる。すばらしい。

なんだかんだで、内側から滲むようなことばを吐く人に惹かれる。そこしか信頼していない。「私はどうしたって、血で書いたような文章を好む。そして魂の叫びがまったく聞こえない文章はただちに放り出したくなる」という哲学者、山口尚さんのことばに深く共感する。複雑に襞をなす内奥の論理が知りたい。

たとえば認知症のお年寄りを「認知症のお年寄り」とカテゴライズして終わり、ではなく。過去をもつひとりの個人として感覚したい。コンビニの店員さんも、電車で隣り合った人も、路肩でいつもストロングゼロを飲んでいる白人のおじさんも、誰一人としてただの背景ではない。そんなことをよく考える。われながら殊勝なこころがけ……。

自分もふくめ、誰もが「いずれ死にゆく者」だと思えばいとおしく感じられる。そうやって人間を見ているふしがある。いや、ごめん、それは大袈裟かもしれない。

こう書き直そう。誰もが何かをなくした人だと思っている。固有の喪失を経験して、なお生きている。長く生きれば生きるほど、なくしものは増える。なくしたものを掬いたい気持ちがある。ことばでしかなくなったものを。



6月3日(木)

父のかかりつけ医が反ワクチン論者みたいで、複雑な気分になった。むずかしい。陰謀論なんかも身近で耳にするけれど、むずかしい。これについても、相手の内側の論理を考えてしまう。何を知っているかではなく、何を生きているのか。目の前で息づく個別の「信」に訴えかけないことには、どんなに正しい「知」のことばも空疎に終わるだけだ。

ソンタグのいう「思考と感受性の問題」は、生き方の問題とも解釈できる。人は自分の内なる牢獄のなかで生きる。それと社会をどう結ぶか。かんたんなこたえはない。

適当にちぎったキャベツをタッパーにいれて、塩・しょうゆ・ごま油・はちみつで和えたら異様においしかった。はちみつで味を丸くする感じ。カドがとれる。たくさんつくっておいた。

朝から頭痛。15時過ぎごろ解消する。たまにある。いつもだいたい15時前後に治る。ふしぎだ。


 

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