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日記803


 

遺影。

 

 

 

人は思い上がりや勘違いによって生きる。誰でもそう。基礎代謝と似たようなものとして、基礎思い上がりや基礎勘違いがある。基礎プラセボ効果、みたいな。偽薬の効力でこの世をサバイヴしている。そいつが切れるとたちまち憂うつに苛まれる。

ではその思い上がりを担保する偽薬とは何か。すぐに思いつくのは貨幣と、ことばだ。わたしは気分が沈むとまず、お金に価値を感じられなくなる。しかしことばに価値を感じられなくなったことはない。マイナスであれプラスであれ。たぶん、それで適当に持ちこたえることができている。

元気は思い上がりの産物である。「元気ですか?」。この何気ないひとことはつまり、「思い上がっていますか?」と問うている。アントニオ猪木の「元気があればなんでもできる」は「思い上がっていればなんでもできる」と言っている。こう考えるとわかりやすい。ほかにも、さまざまなことがストンと腑に落ちる。

悟空の「オラに元気をわけてくれ!」は「オラに思い上がりをわけてくれ!」となる。元気玉、あれは思い上がり玉なのだ。地球人の思い上がりパワーを集め、敵を抹殺する。どおりで破壊力抜群なはずだ。人々は日々、思い上がりを分け合って生活している。思い上がりがなければきっと、思いやりも発揮できない。

この線でいくと、お金は思い上がりの数値化ということになる。そういう側面もなくはないだろう。5000兆円あったらどうする? みたいな問いは、思い上がり心を存分に刺激してくれる。たとえあり得ない勘定でも、思い上がるとたのしい。

 

 ぼくたちは、この世界と「直接」関係を結ぶことはできない。ことばを通して、関係を結ぶのである。
 それは、ちょうど、ぼくたちが、「貨幣」を通じて、物質的世界を手に入れるのに似ている。ことばと「貨幣」は、世界を手に入れるために、人間が作りだした最高の武器なのだ。


高橋源一郎『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』(文藝春秋、p.265)。わたしたちはことばと貨幣の、思い上がりのプリズムを通して世界と関係を結ぶ。「ことばで表現されたものは、現実そのものではない。似ているが異なるものだ。いま見たもの、触れたことはこういうものであってほしい。そんな夢と期待が、ことばとなって現れるのだ」と荒川洋治は著書『文学のことば』(岩波書店)の冒頭に書いていた。ことばも貨幣も期待を媒介する。それがないと、生きていけない。人はいつでも、見えない力に浮かされている。

 

この世に奇跡はない
あるのはただ奇跡を待ち望む気持ちだけ
どこからともなく現れるこの渇望にこそ
詩人は支えられている

 

沼野充義『スラヴの真空』(自由国民社)から、アルセニー・タルコフスキーのことば。「奇跡はない」はずなのに、詩人の「この渇望」はどこからくるのだろう。5000兆円なんかありえないはずなのに、なぜ皮算用がたのしいのだろう。ニセの薬がどうして効いてしまうのだろう。人はいかにして、ないものをあるとみなすのだろう。

いま、ふと野球のニュースが目に入り、流れで虫明亜呂無のエッセイを思い出した。

 

 私は単純だが、しかし、いかにも明快な直感によって、野球は美しいものだ、と、信じてゆくようになった。一時間半から二時間半のゲームのなかに、美しい、とかんじられるものは、ただ一度あるかないか、いや、多くの場合、それは皆無といってよいほどの不毛ぶりだったが、私は奇蹟をまちのぞむおもいで職業野球を見にかよった。そして、奇蹟は、よほどの幸運によって、からくも、一瞬、地上にあらわれて消え、そのあとは、ひたすらむなしい期待だけを観客にかりたてた。
 稔ることのない期待にとざされ、無為と閑暇と焦燥にせめたてられている間だけ、皮肉にも奇蹟は、野球は美しいという奇蹟は、私の心のなかで、奇妙な実感となって生きかえった。私はスタンドの一隅に腰をおろし、体をこきざみにふるわせながら待っている。奇蹟は、いつか、おこるだろう。きっと、おこるだろうと待っている。あの、ふしぎに明るく、透明で、そのくせ、色彩に燃えたつようで、輪郭の正しい、陰翳にみちた、ただ、待つことによってだけ、美しいのだと信じさせてくれるプレーの現出を待って、待ちぬいた。
 待ちくたびれて、私はスタンドの周囲をみまわす。それにしても、戦前の野球場はどうして、あのように暗く、かなしい雰囲気にとざされていたのだろう。

 

『時さえ忘れて 虫明亜呂無の本・3』(筑摩書房、pp.97-98)。ここにも奇跡を待ち望む人の姿が描かれている。ただ、待つことによってだけ、美しい。詩人の感受性もあるいは、このようなものだろうか。哲学者の宮野真生子もまた、野球について「美しい」と書く。

 

 さまざまな条件、幾筋もの流れが、その瞬間に「出会い」、偶然に「いま」が産み落とされる。そんなプレーに遭遇するたび、私は現実ってこんなふうに成り立っているんだと驚いてしまいます。と同時に、そこに「美しさ」を感じます。その美しさは、現実が生まれる瞬間の美しさであると同時に、その瞬間を引き受ける選手の強さでもあります。


宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社、p.95)。気づけば途中から引用祭りになっている。幾筋もの流れをとりとめもなく思い出す。奇跡を待ち望む渇望。地上に一瞬あらわれる美しさ。それを引き受ける強さ。

もうひとつ。虫明亜呂無を書き写しながら、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』(小笠原豊樹 訳、ハヤカワ文庫)を想起していた。冒頭に描かれる、「1999年1月 ロケットの夏」。

 

 ロケットは、ピンク色の炎の雲と釜の熱気を噴出しながら、発進基地に横たわっていた。寒い冬の朝、その力強い排気で夏をつくりだしながら、ロケットは立っていた。ロケットが気候を決定し、ほんの一瞬、夏がこの地上を覆った…… p.14

 

冬の日のひととき、地上がロケットの熱気に覆われる瞬間。それをブラッドベリは「ロケットの夏」と表現する。ほんの一瞬、その一瞬だけ地上は冬をうしなう。この描写にわたしは「美しさ」を感じる。現実ではないけれど、現実味を帯びてつたわる。「美しさ」は、ないものをあると錯覚させる。ありえないものをあらしめる。

引用したことばの共通項に気づく。すべて「ない」を前提としている。世界と「直接」関係を結ぶことはできない。ことばで表現されたものは、現実そのものではない。この世に奇跡も5000兆円もない。稔ることのない期待。偶然に生み落とされる「いま」。冬の日に訪れる一瞬の夏、という虚構。

ここに引いたのは、寄って立つ足場のたよりなさを知悉したうえで、なお信ずべき描像をつかまえようとする共通の態度だ。この世に生まれたこと、そして死にゆくことに、確然たる根拠はない。わたしたちは単に存在し、単にいなくなる。しかしそれだけではあんまりだから、人は単に存在することの暗黒へ、意味の光をともそうとする。

意味の光、それはきっと、驚きとともにやってくる。上述の「思い上がり」は「驚き」と言い換えてもいい。そして光は、深い暗闇に身を置くほど感知しやすい。映画館の照明が落ちる、あのいっときを思い出す。あるいは、ヴィスワヴァ・シンボルスカがノーベル文学賞記念講演で述べた、こんな話も。

 

(世界という)この果てしない劇場について、わたしたちは何を言えるでしょうか。この劇場への入場券をわたしたちは確かに持っているのですが、その有効期間は滑稽なほど短く、二つの厳然たる日付に挟まれています。しかし、この世界についてさらにどんなことを考えようとも、一つ言えるのは、この世界が驚くべきものだということです。
 しかし「驚くべき」という特徴づけには、論理上の罠がひそんでいます。結局のところ、わたしたちを驚かすのは、すでによく知られていて一般に認められている規範から逸脱するものです。人が慣れ親しんでいる、ある種の明白さから逸脱するものです。ところが問題は、まさにそういった明白な世界など、じつはまるっきり存在していないということではありませんか。つまりわたしたちの驚きはそれ自体としてあるものであって、何かとの比較から生じてくるわけではない。

 

『終わりと始まり』(沼野充義 訳、未知谷、p.102)。ここで語られる比較不能な「驚き」は、宮野真生子の「現実ってこんなふうに成り立っているんだ」という驚きとおなじではないだろうか。ランダムな刹那の自由に導かれ、因果が形成されてゆく。気づけばそうなっていた。なんじゃこりゃー。人の一生も、そのようなものかもしれない。


私が自由であるということは、私はいつでもあなたを驚かせるだろうということである。なぜなら、あなたが私を完全に知ることはけっしてないからだ。さらに、私が自分を完全に知ることもけっしてないのだから、私は自分をつねに驚かせることになるだろう。


『科学者たちのポール・ヴァレリー』(紀伊國屋書店、p.181)。腎臓学者、ジャン・アンビュルジェの小論「人間の意思決定の自由に関する考察」より。

もういいおとなだから色々と知ったふりして澄ましているけれど、ほんとうは何も知らない。生きているという、それだけの事実に、マジでビビってる。アホみたいでも、ときにはこどものように、思い上がって、勘違いして、驚いていられる時間があるといい。生きてるあいだくらい。



マンホールに潜む、くま。奇跡的なかわいさだと思う。

 

 

 

 

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