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日記805

 

 

「わからんけど……」と言いつつわからんなりにも生と死について飄々と語り出す、森毅と河合隼雄のおふたかた。重いテーマを軽い雰囲気で、しかし正面からお話になる。聞きながら自分も、わからん話をわからんなりにできるこんなおとなでありたいと思った。

ぜんぜんわからんのやけど、わたしには世界がこんなふうに見える、あるいは、こうであるといい、こうだとおもしろい、とかとか。このブログでも、できるだけそういう話を展開したい。

「わからない」で止めるのではなく、その先をことばにする。それこそがおもしろい。ずっとそう感じている。荒俣宏がいつかラジオで話していた名言「0点をとる勇気」を忘れずにおこう。正解のないことばを紡ぐ勇気、ともいえる。

森毅と河合隼雄のあいだに割って入る男性アナウンサー氏は、その点で好対照をなしている。正解を求めることばづかい。終盤、まとめようとして「ん?ちがうかな……」と言いよどむ場面が顕著。しかしこれは、役回りで仕方がない。まとめる人、いわば「わかったことにする人」がいないと終われないのだから。

それもふくめておもしろく聞いた。「わからん」ということは、終わりがないことでもある。ケリがつかない。わかったことにするから終われる。日本語の生理としても、そうなっているのではないだろうか。然様なら(そういうことならば)と。わかったことにしないと、「さようなら」ができない。死別に関してもそんな側面は見受けられる。

森氏はそれに反して、「ちょっと納得いかんけど死ぬ。ってのがふつうちゃうか」と話す。これを受けて河合氏は「それいいですね。死に際のひとこと、俺はまだ納得しとらんで!」と笑う。「せやけどしゃーない」とアナウンサー氏がかぶせる。森・河合ご両人も「しゃーない」「しゃーない」と復唱する。

この18分過ぎからの流れがたまらなく楽しい。後半に魂の話が出てくるけれど、「納得しとらんで!」が魂ってやつとちがうんかなーなんて思った。納得したら、きれいに成仏してしまう。

魂はぴったりしていない。個人的な感覚では、“収まりの悪い何か”としてよく語られる気がする。「人間は有限なんだけど、無限の裏打ちをほしがる」と河合氏は話す。こうした矛盾の間隙にひそむものが魂なんではなかろうか。矛盾に引き裂かれてはじめてお目見えする人間のありよう……。などと考えたところで、きのう読んだ中野善夫氏のツイートを思い出した。

 


「分けようとした瞬間に“おかしい”と言わすのが魂」と河合氏は説明する。だとすれば魂は、片づけと相性が悪い。こんまり氏のいう「ときめき」の真逆といえる。きれいに分けられない。収納もしきれない。捨てるに捨てられない。やるかやられるか。

こんまり氏の「人生がときめく片づけの魔法」はいわば成仏の方法で、それに対して中野氏は「納得しとらん」とつぶやく。わからんと。「魂を入れることで、わかってた話がわからなくなる。そこがいい」と河合氏はいたずらっぽく笑う。

「わからない」の先へ行く、そのための踏み台がもしかすると「魂」なのかもしれない。話をいい感じに散らかすための方便というか。正解のない、0点の概念。評価の対象にできない。いくらでも蒸し返せる。「魂」なんて言いだすと散らかってしょうがない。その息の根を止める対概念がこんまり氏の「ときめき」。一瞬で正解を叩き出す。

そんなイメージが湧いた。ようするにファスト&スローみたいな。ときめき&魂。速い思考と遅い思考。ときめきは、すぐわかるための概念。魂は、長くしぶとく絡みつくわからず屋の概念。

 


建物と建物のあいだに放置されていた、ハム太郎みたいな絵。捨てるに捨てられなかったのか。ちゃんと捨てられないまま、しかし実質的には捨てられている。じつに中途半端。こういう収まりの悪い余りものに魂が宿ってるんです。たぶん。


6月13日(日)

電動車いすのおじいさんが膝に幼い女の子を乗せて走っていた。ふたりとも、ほんとうにたのしそうだった。女の子が成長したのちも、今日の記憶が残っているといい。すこしでも。


 

 

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