スキップしてメイン コンテンツに移動

日記806


「ぜんぜんなんも関係ないんやなー」とポッカリひらけた感覚、「ぜんぶ関係しとるんやなー」としがらみに閉じた感覚。このふたつのあいだをいったりきたりしている。ひらいたり閉じたり。

かたよりがあるとたぶん不健康で、どっちつかずに揺れているかぎり健康なのだろう。あまり揺れが激しいのも不健康か。ふわっと自分でも気がつかない程度に揺れる。微風でわさわさ。そのくらいが理想的。気がつく時点で、すこし不健康なのやも。

どちらかといえばいまのわたしは、「なんも関係ない」にかたよりがち。ふと失踪したくなる。失踪者の感覚がなんとなくわかる。なんとなく。決然たるものではない。ふわっと「すべてぶっちぎって、すこしだけどっかいこう」と。その「すこしだけ」がずるずる何年もつづいちゃう、みたいな。そんな発想は迷惑千万なのだけど、脳裏をよぎる。でも実行はしない。

「ぜんぶ関係しとる」はこどもっぽい世界観。あらゆるものが連続的で、なにひとつ切れない。ひとりになれない。強い因果に閉じた、ちいさな世界。「なんも関係ない」はおとなというか、変に悟った感じ。「死」にちかい。そういえば悟りって、ひらくのよね。「悟りを閉じる」とは言わない。

「なんも関係ない」をこじらせると「失踪」へ向かう。では「ぜんぶ関係しとる」のこじらせ形態は何か。「引きこもり」だろう。パーンといなくなる人、がんじがらめでずっといる人。正反対のようで、この両者はどこか似ている。

わたしには引きこもりの経験がある。なので、失踪も経験すれば両極をコンプリートできる。在から不在へ。そんな人生も悪くはない。でもたいへんなことだし、いまんとこしない。そこまでの沈黙を自分に許せない。せずに済めばありがたい。

ふつう人は、たゆたうように、いたりいなかったりを繰り返す。行ったら帰る、帰ったら行く。いるようでいない、いないようでいる。リズムよく「いる」と「いない」の波間を泳ぐ。これが健康的なふるまい。リズムを崩すと心配されてしまう。およそあらゆる心配の種は、リズムの失調から芽生える。

 

失踪と引きこもり、この極端な精神性をセットで捉えなおすと、自分のなかでなんか見えてくるかもしれないなーとぼんやり考えている。共通項は、ことばの不在。曖昧な喪失。そしてどちらも「親密さ」に対するリアクションとしてあらわれる。はた迷惑でも当事者にとってはおそらく、「再生」を希求する意味合いがある。しかし同時に、自殺とも似ている。

んだけども。自殺にもまた「再生」を希求する意味合いがある。自殺を決意した人は妙に明るくなるらしい。精神科医の神田橋條治先生はそこから、自殺にはどこか治療的な意味合いがあると発想し、「ちょっと死んでみる」という養生法を提案している。ようするにヨガの「死体のポーズ」なんだけど、発想の経緯がおもしろい。

わたしはこういう柔軟な発想が好きだ。頭ごなしの決めつけは「ことばの不在」を深める。「ことばの不在」は関係のひずみとして堆積し、いずれ激しい揺れの震源地となる。ひずみのない人間関係は、ないんだけどね。ただ、溜め込むとまずい。どんな感情であれ、動かすことが必要だと感じる。

 

神田橋 僕は「あるがまま」という言葉は使わない。あるがままという言葉を使うと、何か丸ごと受け入れのような感じになるから。

広瀬 それではだめなんですか?

神田橋 「あるがまま」という言葉を使うと、何か動かないようなイメージがある。希望や期待や夢が入り込む余地が減る言葉は使わない。増える言葉をいつも使う。


『発達障害は治りますか?』(花風社)に引用されていた、精神科医の広瀬宏之先生との対談から又引。神田橋先生のお考えには細かい部分で違和感があるものの、根本的な姿勢は自分にフィットする。なんでもそうだけど、枝葉末節より根幹を第一に見たい。

 

単純な事実を確認しておこう。生きているということは、絶えず動いているということ。誰もが変化の途上にあるということ。死なないかぎり「まだある」ということ。いや、死んでも「まだある」かもしれん。「まだわからない」ともいえる。

神田橋先生は「自殺」という概念さえも、治療的にやわらかく活用していく。何も決めつけない。わかったことにしない。それぞれの「つづき」を示唆する方法が紙面の上から読み取れる。「あなたにはまだつづきがある」と。「動」を片時も忘れないその姿勢は、心の底から見習いたいと思う。

しかし逆に、「つづき」がつらい精神状態もありうる。人間の心理を考える態度は、一方向ではいけない。行きつ戻りつ、押したり引いたり、あちらを立てればこちらが立たず、なのよね。どこまでも。一筋縄ではいかない凹凸がある。だからわたしたちは絶えざる相互補完によって生きているのだと思う。そうやって社会は成り立っている。

ことばは補完的に利用するものだと、ことばを使いながらいつも感じる。お人好しな個人の直感に過ぎないけれど、これは互いに補い合うためのツールじゃないかな。

将棋では、何も動かさない最初の盤面が最強なんだと聞く。いわれてみればあたりまえで、だからこそ気づきにくく、おもしろい指摘だ。動かすと弱くなる。棋士は盤面を一手一手、慎重に、結末へ向けて弱くしていく。弱さを深めるゲーム。

これはあらゆることにいえる。ことばも、黙ってるのが最強で、しゃべっちゃうと弱くなる。語るってことは、どんなかたちであれ弱さをさらけ出すことでもある。ことばを深めることは、弱さを深めることだ。それがむしろ強みにもなりうる。パラドキシカルな営為。


話が逸れた。

ともかく自己省察の一貫として、「失踪」と「引きこもり」を考えたい。すこしずつでも。とりあえず意識づけのために、着想だけ置いておく。やらなくてもいい宿題を増やしている……。やらなくてもいいので、やらない可能性も大いにある。



6月17日(木)

早くも夏バテ気味。流行を先取り。自分以外の人々がタフに見えてしょうがない。コンビニで花火を買う人がいた。参加したいと思った。

神田橋先生の本にあった「焼酎風呂」をここ数日、試している。バスタブのお湯に、おちょこ一杯ぶんの焼酎を混ぜて入浴するというもの。よくわからん怪しい養生法だけど、ものは試し。効果はいまのところ不明。



コメント