スキップしてメイン コンテンツに移動

日記808

 

神田橋 僕は言葉は子どものときから自由自在に使えていたの。

浅見 そうでしょうねえ。ご本を読むとわかります。

神田橋 だから言葉は信用しないの。

浅見 わかります。

神田橋 便利な道具として、どうにでも使えるということがわかっているからね。


『発達障害は治りますか?』(花風社、pp.267-268)。精神科医の神田橋條治先生を囲む、座談会の本。引用のような、ちょっとした横道のお話が興味深い。「信用しない」は言い換えると、支配されないということだろう。ことばはとらえどころがない、ともいえる。「道具に過ぎない」という見限りもあるかしら。とはいえ、まったくの自由もありえない。

上記の引用は、体と心のつながりを問う文脈から出てきたお話。ことばにとらわれなくなると体が見えてくる、とも解釈できるかな。言語的な分析はほどほどにして、体に着目する流れ。僭越ながら、自分も似たような考え方の経過をたどっている。ただわたしの場合、おとなになってから。

ことばは信用ならない。だからスリリングでおもしろい、とも思う。うそかまことか、わからない。うそもまこともないのかもしれない。あなたの、そのいい加減さが好き。

自分のことばでも、「自分のもの」とは言い切れない。「あなた」なのよね。外に出した瞬間に、もうよそよそしい。ことばはそもそも後天的に他者からゆずりうけたものであり、自他の区別をあいまいにする性質がある。こだわり過ぎると自分を見失ってしまう。

体に着目すると、肥大しがちなことばが削がれる。

 

『発達障害は治りますか?』を読んで、あらためて思った。神田橋條治はおもしろい。「プラシーボ効果だっていいんだ。プラシーボ効果ほどいいものはない。一番いい治療法だ。(前掲書、p.288)」というご発言なんか、これも僭越ながら、わたしもそう思ってた。しかし、これをはっきり「一番いい」と言うお医者さんがこの世に存在するとは思っていなかった。

こういう身も蓋もないことをスパーンと言える人に惹かれてしまう。どんな分野にもひとりはいる、なんか超越してる人。ちょっと極端で危うさも感じる、でも誠実そうな人。



6月19日(土)

雨降りの土曜日。介護施設にいる祖母と面会した。窓ガラス越しに、電話。コロナ対策。この方法はでも、すこしロマンチックな感興をもよおさなくもない。わざわざ遠回りする感じ。

遠回りって、ロマンチックなんです。そんな気がする。遠くて遅くてまわりくどくてうざくて見方によってはイライラしてしょうがない。そういうもんが世間的には「ロマンチック」といわれているんではないか。

たとえば、辻仁成が初対面の中山美穂に告げた「やっと逢えたね」。盛大な勘違いともいえる「やっと」という長い時間の経過をあらわす語に、彼のロマンが詰まっている。良くいえば想像の余地というか。

感触でいうとロマンチックはぶにょぶにょしている。粘着質な「つなぎ」。身も蓋もなく小ざっぱりした一撃とは正反対の概念。「身も蓋もなさ」は解体的で、ロマンチックは構築的。骨と肉みたいなイメージ。

話を戻す。本の差し入れをした。モハメド・オマル・アブディンの『わが盲想』(ポプラ社)。盲目のスーダン人が来日して、てんやわんやする本。「おもしろいよ」と話した。「あらそう」と気のない返事をもらう。

若い男性の介護士さんを、わたしの名前で呼びつけていた。変な感じだけど、なんか安心した。わたしはいなくても、いるんだなと。 

 


コメント