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日記809

 

「ロマンチック」について、「遠くて遅くてまわりくどくてうざくて見方によってはイライラしてしょうがない」そういうたぐいのもんではないかと、きのう書いた。きょうになってあらためて考えると、これはお年寄りのことではないかと思い至る。歳を重ねるにしたがって、なにか人は、ロマンを純化させていく傾向にあるんじゃないか。良くも悪くも……。

耳が遠くなった祖母は、「聞こえないとさびしい」とたびたび口にする。文字通り、遠くにいるような感覚なのだと思う。そばにいるはずなのに、自分だけが遠く置き去りにされてしまう。ただ聞こえないだけではない。「耳が遠い」というすこし詩的な慣用句の核には、「さびしさ」がある。

聴覚以外でも、感覚の鈍麻と「さびしさ」はセットで訪れるのだろう。そして「さびしさ」とは、まさに「遠くて遅くてまわりくどくてうざくて見方によってはイライラしてしょうがない」種類の気持ちなのだ。みなまで言えない、だけど気づいてほしい。それはすなわち、ロマンチックの素となる感情でもある。

個人的には「かわいい」と思う気持ちにも、「さびしさ」がふくまれている。「かわいいね」と「さびしいね」は、ほとんど同義といってもいい。さびしいと感じたときはだから、ロマンチックにかわいくなれるチャンスなんです。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻、小泉節子の「思い出の記」が頭に浮かんだ。青空文庫で読める。この手記から漂う情緒がわたしは好きだ。たとえば、こんなところ。

 

 熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します。ある晩ヘルンは散歩から帰りまして『大層面白いところを見つけました、明晩散歩致しましょう』との事です。月のない夜でした。宅を二人で出まして、淋しい路を歩きまして、山の麓に参りますと、この上だと云うのです。草の茫々生えた小笹などの足にさわる小径を上りますと、墓場でした。薄暗い星光りに沢山の墓がまばらに立って居るのが見えます、淋しいところだと思いました。するとヘルンは『あなた、あの蛙の声聞いて下さい』と云うのです。
 又熊本に居る頃でした。夜散歩から帰った時の事です。『今夜、私淋しい田舎道を歩いていました。暗いやみの中から、小さい優しい声で、あなたが呼びました。私あっと云って進みますとただやみです。誰もいませんでした』など申した事もございます。


どうだろう。「大層面白いところを見つけました」と連れて行かれた場所が墓場で、「あの蛙の声聞いて下さい」なんて言われたら。見方によってはイライラしてしょうがないかもしれない。「どこがおもしれーんだよ」と。でも、「ヘルン」にとってはおもしろい。ここにわたしは、「さびしさ」と「かわいさ」と「ロマンチック」の有機的なつながりを見て取りたい。足りない感覚から、それを埋めるように湧き出してくる情緒がある。美しい、ひとりよがり。

 


6月20日(日)

交番の前で立っている警察官に、中指を立てる男性がいた。不穏な空気を感じ、眺めていると「オイ!そんなんで悪いヤツ捕まえられんのか!」と怒鳴りはじめた。「悪いヤツ捕まえてこいや!オラァ!いんだろ悪いヤツ!」といったようなことを警官に何度も叫んでいた。すごくシュールな光景だった。

しかし思い出すとじわじわくる。なんでそんなに悪いヤツを捕まえてほしかったんだろう。彼の怒りはどこからきたのか。どういう正義感なのか。おかしくて仕方がない。声がプロレスラーの真壁刀義に似ていた。これから真壁氏を見るたびに記憶がよみがえりそうで困る。「悪いヤツ捕まえてこいや!」って。

だけど、そうだな、見せもんじゃない。おもしろがるのも失礼だ。彼にも何か事情がある。あそこに至るまでの切実な何か。どんな声でも、それが声であるかぎり、まじめに聞く必要はある。

その帰り、走りながら「絶対強くなる絶対強くなる」と唱える男女ふたり組を見た。「がんばれ」と思った。



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