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日記810



ひとつ前に書いた、「悪いヤツ捕まえてこい!」と警官に怒鳴る男性についてぼんやり考えていた。早い話が狂人なのだけど、理性的な狂い方というか、なんか時代を反映している気がする。正しい立場を堅持しながら狂っている。警官に向かって正々堂々と。おかしいけど、反社会的ではない。そこそこ社会性にかなった狂い方。現代の空気が個人のなかで煮詰まると、ああなるんじゃないか。「悪いヤツ捕まえてこい!」とお怒りの方は、ネット上ならたくさんいる。 

 

「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」とG.K.チェスタトンは『正統とは何か』(春秋社、p.23)に書いている。なるほど、そうかもしれない。

 

狂人はたった一つの観念のとりことなっている。その牢獄は清潔無比、理性によってあかあかと照明されてはいるけれども、それが牢獄であることには変わりがない。彼の意識は痛ましくも鋭敏にとぎすまされている。健康人の持つ躊躇も、健康人の持つ曖昧さも、彼にはまったく欠けているのだ。p.29


彼は曖昧にたたずむ警官を許せなかった。わたしにも曖昧さを嫌う心性はある。曖昧なものを放っておける、適度ないい加減さが精神的な安定性には不可欠なんだろう。なんでも明確にすればよいというものではないのだ。チェスタトンは曖昧さを擁護して、神秘主義の必要を説いている。


現実の人間の歴史を通じて、人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を破壊する時、すなわち狂気が創られる。平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである。薄明の存在の余地を認めたからである。一方の足を大地に置き、一方の足をおとぎの国に置いてきたからである。p.39


さいきん、似たようなことをずっと書いてる気がする。さいきんでもないか。「わからない」ということ。世界をわからないものに育てること。わかっている領域よりも、わからない領域のほうがずっと広くて、おもしろい。


狂気に陥りかかった精神を相手にする場合、われわれの努めねばならぬのは、相手の論理の穴を突くことではなくて、空気抜きの穴を開けてやることなのである。同じ一つの論理に固執しつづければ窒息してしまう。だから、この論理の密室の一歩外には、晴れ渡ったすがすがしい世界が広がっていることを知らせてやらねばならないのだ。p.25


わたしにとってのインターネットはもともと、「空気抜きの穴」だった。ぜんぜん知らない人の、よくわかんない文章を読んでたのしむ。名もない個人による、きわめて個人的な世界観を深める穴。この世界には、いろんな人が生きている。あたりまえの事実を確認できる抜け穴。いまもできるかぎり、そのようにSNSや個人ブログを見回っている。このブログも、謎の「空気抜きの穴」を目指しています。曖昧な空間として。「いろんな人」の一員として。「同じ一つ」にはまらぬよう。



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