スキップしてメイン コンテンツに移動

日記812


 

『みんな水の中 「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』という本を読んだ。医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の一冊。著者は大学教員の横道誠さん。ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けている、いわゆる発達障害の当事者。

目次は大きく3部に分かれる。「詩のように。」「論文的な。」「小説風。」。いずれも、余白を残した表現になっている。「詩」「論文」「小説」とぴったりカテゴライズした瞬間に切り落とされてしまう、その通りにはいかない感覚がある。どれでもありえて、どれとも言い切れない。浮動する水溶性の個人的な息づかいをできるかぎり損なわず綴じたような構成なのだと思う。 

作家の高橋源一郎さんはこの本についてラジオで「正直、ちょっと読みにくいんです」と話していた。高橋さんいわく、意図的に「わかりやすさ」を避けたつくりだという。大多数の、いわゆる定型発達者に合わせた整地は抑えて、ひとりの人間の異物感をそのまま本に綴じている。全体のゴツゴツした語り口は、他者を理解することのむずかしさ(できなさ)を物語るために採用されたんじゃないかと、わたしなりのまとめではそんなお話だった。

 

(追記)NHKのサイトでトークの文字起こしが読める。

 

なんというか、ぬかるみに嵌るような読み心地。その感触から、「あいまい」という観点が浮かんだ。『みんな水の中』に頻出するキーワード「脳の多様性」は、「脳のあいまい性」ともいえるんじゃないか。

個人的な言語感覚に過ぎないが、「多様性」ということばには俯瞰的(メタ)な印象がつきまとう。いわば神の視点。でも「脳の多様性」はわたしの理解だと、俯瞰しきれない個別的な、地を這う認知のありようを指す。それは、十把一絡げにできない環境とともにつくられる体のあいまいな機序からきている。 

 


ほんで、たぶん、あいまいに生きてる感覚って誰にでもある。大なり小なり、型どおりにいかない、カテゴライズしきれない、タグ付けできない、ひとりきりの領分はあるはず。詩人、長田弘のことばを借りて「感受性の領分」といってもいい。茨木のり子が「自分の感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」と書いた、その領分。不定形であやふやな時間。

既成のこたえに依らない「感受性の領分」は、芸術の領分ともいえるのかもしれない。『みんな水の中』は医学書に分類されると思うけれど、横道さんは「本書の成立を学問的営為のみには負わず、創作という芸術的営為にも負っている」と述べる。

 

 本書には、被観察者(私自身)の体験世界を詩的な語りとして紡ぐという一種の創作的側面(Ⅰ部)と、それをコラムとして解説し、ときには人文学的な、ときには社会科学的な、ときには自然科学的な解説を付けてゆくという別種の創作的な側面(Ⅱ部)が、そしてさらに小説めいた文章の執筆というまた別の創作的側面(Ⅲ部)が並存しているのだ。pp.194-195

わたしはこれを、「俯瞰的営為のみには負わず、創作という主観的営為にも負っている」と理解した。「文学と芸術とは、混沌とした宇宙に明晰さを与えるものにほかならない(p.51)」とも語っている。ここがおもしろい。

というのも、定型発達者にとってはおそらく逆なのではないかと思うからだ。既成の概念から逸脱した、あいまいな世界のなかの自己と向き合う営為として芸術がある。しかし、「既成」に組み込まれていない「混沌とした宇宙」に棲む発達障害者の側からすればそれは、明晰さを湛えた光のようにうつる。

定型発達者は魔法が混じった現実の世界に生き、私たちは現実的要素を孕んだ魔法の世界に住んでいる(p.59)」という、この分析がとくに示唆的だと感じる。こう言い換えることが可能なのではないか。「定型発達者はあいまいさの混じった既成概念の世界に生き、発達障害者は既成概念を孕んだあいまいな世界に住んでいる」と。

つまり前提にある、あいまいさの度合いがちがう。確からしさに満ちた世界と、不確かで寄る辺ない世界とのちがい。不確かな世界に生きている人はそのぶん、自分の感じ取った数少ない「確からしさ」をつかんで離さない。それにより、発達の凹凸が激しくなるのではないか。

あいまいな世界は、選択肢の多い世界ともいえる。ASD当事者である綾屋紗月さんの証言を、横道さんは以下のようにパラフレーズしている。

 

ASD者の多くは、単純なかたちで他者の心を測りがたいわけではない。綾屋は、「なぜ彼や彼女がそのように動き、そのような話し方で、そのような言葉を話すのか、といった人びとの「意図」の可能性をあまりにもたくさん推測してしまうために、ひとつに決めきれず、「読めない」」と指摘する。
 私の場合もまったくそうだ。おそらく定型発達者は他者の意図を三択問題のようにして解いており、対して私たちはそれを十択問題のようにして解いているのではないか。p.124

 

解釈の可能性が多すぎてフリーズしてしまう。

わたしにも同様の傾向はある。3人以上のコミュニケーションで「読めない」事態が生じやすい。展開の速度についていけなくなる。いちいち意を汲もうとしすぎている。それだけに、良くいえば「すくないことばで強い印象を残す人」と評される面もある。しかしほとんどの場合、ただただ沈黙に終わる。

 


『みんな水の中』はわたしにとって、異質な他者が書いた本であるだけではない。ところどころ同質性も感じる。もちろん異質な部分は多いが、「わかる」部分もある。そんなに「読みにくい」とも思わない。散らかっていて楽しい。この本を読んであらためて、自分は不確かで寄る辺ない世界に半身を寄せているのだと感じた。 

ほかに、こんな部分がうなずける。


 ASD者の視界は平面的な印象が強く、立体的な奥行きが曖昧な傾向にある。
 ガーランドは、少女時代の体験世界について、つぎのように書いている。「世界は写真のように見えていた。このことの影響は、さまざまなかたちをとって表れた。たとえば私は、近所の家々にも内部があるということを知らなかった。すべては芝居の書き割りのように見えていたからである。自分の家の内部には空間があることは知っていたのに、その知識を、向かいの家に応用することはできなかった。向かいの家は、紙と同じ、平面でしかなかった」。p.75


わたしの視界も平面的な印象がある。まさに「写真のよう」だと感じる。でも「紙と同じ」と言い切れるほど極端ではない。ちなみにここを読んだとき、甲野善紀と光岡英稔の対談本『武学探究 巻之二』(冬弓社)で甲野さんが話していた見立てを思い出した。


我々がものを見るとき、三次元の現実が網膜に映るわけですが、網膜はあくまでも二次元の面ですから、脳に入ってきた時点ですでに情報は二次元的なんですよね。それを過去の経験や学習をとおして、立体感を作り出しているのです。つまり我々は、いったん二次元に還元した情報を、三次元へと脳の中で組み立て直しているんですよね。立体に感じるのは、頭の中でそう感じているということであって、言ってみれば幻覚なのです。だからこそ、映し出された映像が平面であるテレビや映画を見ても、我々は立体感を感じることができるのです。p.35

 

あるいは同じ本で、こうもおっしゃっている。

 

昔読んだある本に「二次元に住む生物がもし三次元の世界に来たとすると、周囲のものが突然消えて、また突然現れる感じがするだろう」とありましたが、二次元の世界に生きている生物が仮にいたとして、もう一次元加わった三次元の世界は、その生物にはまったく想像がつかないわけです。p.42


おもしろい見立てだと思う。「科学的な正しさ」は措くとして。多くの人は、頭の中で三次元補正をほどこし、世界を見ている。すべての家には内部があって、見えない向こう側にも世界がつづいていると。お腹があれば背中もあると。空も地面も確からしい、と。

しかし補正がうまくいかない場合、グニラ・ガーランドの語るような平面的世界像となる。「周囲のものが突然消えて、また突然現れる感じ」は、「魔法」のようなASDの知覚世界にちかいのではないだろうか。カーブの向こうにも道がつづいていると確信できない世界。補正で成り立つ予測のクッションがうしなわれている感じ、というか。あの角を曲がった先は、断崖絶壁かもしれない。極端にいえばそんな、予断の許されない世界。

 

※『武学探究 巻之二』に発達障害の話はいっさい出てきません。

 


 

話をちょっと戻す。

「多様性」を「あいまい性」としたくなった理由をよくよく考えると、大江健三郎の名前がちらほら挙がっていたからかもしれない。すなわち、ノーベル賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」が頭をかすめたのだった。


心が傷ついている人が創作物に触れると、そこから元気や勇気を受けとることができる。そのとき起こっていることは、小規模でも確実な治癒や療養なのだ。その意義は、これまでの医療や福祉であまりにも過小評価されてきた。 
『みんな水の中』p.201

この一節の内には、横道さんの実感とともに、大江健三郎の声もいくらか混じっているような気がした。

 

私は渡辺一夫のユマニスムの弟子として、小説家である自分の仕事が、言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、また時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの魂の傷を癒すものとなることをねがっています。

『あいまいな日本の私』(岩波新書、pp.15-16)

 

また、わたしが感じている「多様性」と「あいまい性」のちがいは、大江が講演で引用していた《ambiguous であるが vague ではない》につうじるかもしれない。し、ぜんぜんちがうかもしれない。どちらも、「あいまい」を意味する英単語でも、微妙に意味が異なる。

わかんないけど、試しに書いてみよう。

「あいまいな日本の私」における“vague”と“ambiguous”の差(≒川端康成と大江健三郎の差)は、わたしの感覚的な理解でざっくりいってしまえば、主体の有無かと思う。vague は主体をなくす。世界のなかに溶けるような、主体が消え入るあいまいさ。対して大江が自認する ambiguous は、一個の主体が消えることなく引き裂かれるようなあいまいさ、ではなかろうか。意味をうしなうあいまいさと、意味が錯綜するあいまいさ。

あるいは、そうだな、集団を軸にした個のあらわれ方(川端)と個を軸にした集団のあらわれ方(大江)のちがいなんだと思う。「多様性」は前者に対応し、「あいまい性」は後者に対応する。ハイパー単純化すれば、トップダウンとボトムアップの差。

ここでふたたび、『みんな水の中』の示唆的な一行を引きたい。「定型発達者は魔法が混じった現実の世界に生き、私たちは現実的要素を孕んだ魔法の世界に住んでいる」。この分析は、次のようにもいえるんじゃないか。つまり「定型発達者は個人が混じった集団の世界に生き、私たちは集団的要素を孕んだ個人の世界に住んでいる」と。

個人として生きる自己は、とてつもなくあいまいだ。逃げ出したいくらい。誰ともつうじない、ひとりの時間を想像する。置き去りにされたようなとき。アイデンティティが錯綜するとき。たよりなくて、藁にもすがる思いになる。きっと、そんなときに拾った藁がすこしずつ自分の感受性をつくり、その感受性がいずれまた、誰かのすがる藁にもなりうるのだろう。



いい加減、長いので終わる。

『みんな水の中』を読むなかで思い出したことは多い。さいごにひとつだけ。「永遠の瞬間」という項目があって、そこから派生的に浮かんだ西脇順三郎の随筆を引きたい。

 

 人間の存在について、私が重大だと意識することは、人間は永遠のなかに存在していることである。人間は永遠のなかへ生れ、永遠のなかへ死んで行くのだと思う。しかしこれも生物の宿命であって、どうにもしようがない。生物のどんなに短い生命の時間でも、永遠の時間の一部分であり、またどんなに小さいものでも、永遠の空間の一部分であると思う。ローレンスは「死の舟」という詩を書いて、忘却への国、永遠の国へ船出のことを書いたが、死の船も生の船も初めから永遠のなかに浮かんでいる。

『野原をゆく』(講談社文芸文庫、pp.15-16)


あらためて読むと、「みんな水の中」と書いてあるにひとしい気もする。

 

みんな永遠のなか。ひとり、浮かんでいる。


 

コメント