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日記813


先日、エレベーター内ですこしずつ屁をこく人がいた。気を遣いながら。でも確実に、こいている。ぽそぽそぽそぽそ……。長いこと鳴っていた。いっそ、ひと息に出してほしかった。大音量でもかまわない。ちょっとくらい臭いがしたっていいさ。一期一会の短い時間だ。大丈夫だよ、風通しよくいこう。

エレベーターには、わたし以外に3人乗っていた。ここでふと思うのは、わたしは屁こきOKな人間だけど、ほかのひとがどう感じているのかわからない、ということだ。わたしはいいけど、まわりは屁こきNGかもしれない。やはり気を遣うべきなのか……。気持ちに迷いが生じる。

前回の記事に書いたことの一端は、こんな葛藤にちかい。つまり、一人称視点(わたし)と三人称視点(まわり)の葛藤。どちらかに寄るのではなくて、あいだをいい感じに調停できると理想的だと思う。横道誠さんの『みんな水の中』(医学書院)は、一人称性と三人称性がうまく混淆している。あくまで軸は一人称の側に置きつつ。

ひとりよがりなだけでは接続不良を起こすし、客観が過ぎても無味乾燥となる。あるいは三人称性を軸にした発言の例だと、太宰治『人間失格』の有名なくだりが思い出される。


(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)


わたしは屁こきOKだけど、ほかの人は屁こきNGかも。こう考えるとき、(ほかの人じゃない、あなたでしょう?)と問い返してみることがたいせつではないか。葛藤してみること。引き裂かれること。「ほかの人」もわたしに内在する別視点の心理なのよね。

開放的に「バンバン屁ぇこいてこうぜ!!」というのもちがうし、「公衆の面前で屁をこくことは一般的なマナーとして失礼だとされているので、ダメに決まってる」というのもちがう。どちらも屁をこいた当事者が不在になっている。二人称「あなた」の存在を忘れずにおきたい。気を遣いながら、すこしずつ屁をこくあなたがいた。まずはそこから。

 


当事者の語りというのは、一人称でも三人称でもなく二人称的なのかもしれない。手紙を書くように、そっと打ち明ける。あなたのこと。すこしずつ屁をこいていた「あなた」は、じつをいうとわたしです。屁こきOKな自分と屁こきNGな自分を戦わせながら、結果的に中途半端な屁をこいていた。同乗者たちに申し訳ない。

さっき、ラジオで和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」が流れた。「あなた」ということばは鏡像のようで、ふしぎな感じがする。「あの鐘を鳴らすのは私」だと、アッコにおまかせ状態になる。「あの鐘を鳴らすのはみんな」だと、鳴り放題で騒々しい。この歌詞はやはり「あなた」にかぎる。

そして「あなた」には、たぶん少々「わたし」がふくまれている。わたしはわたしであるだけではない。「あなた」と「わたし」は連続的なひびきをもつ。なんとなくそう感じる。

 

 書くというのは、二人称をつくりだす試みです。書くことは、そこにいない人にむかって書くという行為です。文字をつかって書くことは、目の前にいない人を、じぶんにとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです。

 

長田弘『すべてきみに宛てた手紙』(晶文社)の「後記」より。いる者同士ではなくて、いない者同士でつながる。それが書く/読む行為じゃないか。どちらかというと、ひそやかなおこないだと思ってる。

長田弘には『一人称で語る権利』(平凡社ライブラリー)という著作もある。好きなタイトルだ。「一人称なのか二人称なのか、どっちやねん」って感じもするけど、両方あるのだと思う。「どちらか」ではない。三人称もある。それらが錯綜することで思考が成り立つ。人間が抱きうる視点はたぶん、もっとある。

ひとつに統合された人称はあまりリアリティがないと思う。だいたい「わたし」ってだれ。ここはどこ。「いま」ってなに。いや……あまりリアリティを追求すると発狂してしまうのでやめよう。凡庸な幻覚を見ていよう。

『すべてきみに宛てた手紙』をパラパラめくると、こんな引用があった。又引する。


 人は、彫像によりも、むしろ細工のしていない石塊に似ている。そして、その姿をつくりあげ、その人のなかにその人のほんとうの姿を発見し、その美しさを規定するには、ただ繊細な感覚と眺める方法を理解していることだけが大切なのである。――君の名は何というのか?――と、ある詩人が、暗がりのなかでぼんやりとしか見分けがつかない一人の女神に訊いた。――あなたが何者であるかをまず言いなさい――と、女神は答えた。――愚かな人間にはわたしは愚かな人間ですし、賢い人間には賢い女です。――


出典は、ウィリー・ハース『文学的回想』(紀伊國屋書店)。「あなた」と「わたし」の連続性を語っているようにも読める。人は互いをうつし合う。伝染し合う、ともいえる。無数の鏡たちが乱反射するように「わたし」がつくられる。そんなイメージが浮かんだ。

 


7月3日(土)

選挙がおこなわれるため、この一週間はあちこちでやかましい声が響いていた。やかましいと海に行きたくなる。夏だし、海に行きたい思いを慢性的に患っている。星野源がラブソングと真正面から向き合ったらしい。テレビで言ってた。わたしもいつかラブソングと真正面から向き合えたらいい。ラブソングっていったいなんだろう。あの子のこと目に浮かんだよ。うまくいっているかな、大丈夫かな。きょうはときおり晴れ間の覗く天気だった。明日は雨の予報でも、さいきんの傾向だとわからない。降りそうで降らないような日が多い。投票日か。公明党を支援する知り合いから連絡があった。わたしの投票行動には関係のない情報をたくさんもらう。帳尻は何ひとつ合わない。過ぎていく一切をただ眺めている。

 

 

コメント

anna さんのコメント…
エレベーターとかの密閉空間で臭うのはいやだなあ。。。

ひとつ前の日記で、現実の三次元は網膜の二次元に移されて、それを脳内で三次元に変換してるだけだから、私らが見ている世界はすべて虚像だってのは衝撃的です。確かにテレビは二次元だけど三次元に変換して見てますもんね。そーいえば、猫はテレビを見てもあくまで平面の画像としか認識しないから、画面の中で動くものは追うけども、虫とか鳥だって認識はしてないって聞いたことがあります。猫は脳内変換しないのかな。
nagata_tetsurou さんの投稿…
きょうニュースで流れた「区政」ということばが「臭ぇ」と聞こえて一瞬だけ戸惑いました。クサい思いをさせたかもしれないこと、意外と気にしてる自分がいた。エレベーター内もいちおう換気はされていますけどね、狭い空間なので悪いですね。

猫のご指摘、とてもおもしろいです。猫はたぶん変換しないんじゃないかなー。わからないけれど。人間は世界を三次元で見ているのではなくて、三次元的に感じているんですよね。三次元風のフィーリングでなんとかやってる。ぜんぶは捉えきれていないから、錯視もめずらしくない。100%現実を見ているのではなく、半ば想像を見ているのだと思います。

想像を見ている。人間ってホントおもしろい生きものです。笑

半分ちゃんと見ないことによって、むしろ見やすくなった。そんな逆説がある気がします。猫なんかは、めちゃくちゃ見るんです。いちいち見る。自閉的とされる人々も、見すぎる傾向がある。「視覚優位」とよくいわれます。

自閉的な人は、多くの人がちゃんと見ない半分を見てくれる人でもあるんです。そう考えると、「凹」と「凸」がカッチリ噛み合う感じがします。視覚認識の問題は、考えてみるととてもおもしろいです。まさに「衝撃的」ですね。