スキップしてメイン コンテンツに移動

日記814


7月4日(日)

投票へ行った。新聞社の出口調査員に激怒する高齢男性がいた。理由はわからない。思いもよらないことで怒りだす人は多い。理由なき反抗かもしれない。そういうお年頃とか。肌寒い雨の日だった。家に帰って上着のシャツを脱いだとき、腕に蟻が這ってきた。すこし焦る。すぐ窓をあけて外に放った。蟻が腕を這うくすぐったい感触、いつぶりだろう。

脚に蜘蛛が這ってたことはさいきんあった。蟻は何年もない。

昼食後、腹痛に見舞われ、久しぶりに嘔吐した。何かが当たったのだ。たぶん、賞味期限切れのチーズケーキ。胃腸が弱い。食べ物に気をつける決意を新たにする。油断禁物。

それで思い出した。関係あるようでない話。

アレルギーでイカとタコと貝類を避けている(イカタコも貝の仲間らしい)。このことを人に告げると、高確率で「嫌いなんだね」と理解される。味が嫌いなわけではない。アレルギーで食べられない。これを正確にわかってくれる人はすくない。あくまで体質の問題であり、好き嫌いの問題ではないのだ。

抽象的にいえば主体化以前の問題であり、主体の問題ではない。無意識の問題であり、意識の問題ではない。自然の問題であり、人工の問題ではない。つまり、意志は関与していない話。それが意志的な話に回収されるのよね。

人の行動を解釈するモノサシが「好き嫌い(意志的な話)」に一元化されているのかなーとぼんやり思う。意志だけでは片付かないこともある。世の中、意志によらないことばかりだとわたしは感じているけれど……。

「わかってる人」がほしいのかもしれない。わたしはわたしがなぜ貝類全般を食べられないのか、自分でもわからない。できれば気にせず食べたいのに。なんでこういう体なのか、知らない。「アレルギーで食べられない」とは、そういう意味だ。

でもそう解釈すると、「わかってる人」がいなくなる。「嫌いだから食べない」とすれば、「わかってる人(それを嫌う人)」がちゃんといる。わかりやすい理由になる。

モノサシの一元化は、主語の一元化ともいえる。わたしが食べられないのではなく、わたしの体が食べられないのだ。わたしを語る主語は、「わたし」だけではない。そんな単純なもんじゃない。「わたし」以前の「体」がある。「あなた」だって「みんな」だって、わたしの主語になりうる。わたしはひとりだけど、ひとつではありえない。

 

小ネタのつもりが、なんだか白熱してしまった。いいたいのはようするに、こういうことかもしれない。誰のせいでもないことって、たくさんあるよね。誰のせいでもない。そのグレーな領域を塗りつぶさないようにしたいものです。

 


コメント