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日記815


 

メモ。

 

 幻聴への対処法として外に出す方法もありますが、逆に中に溶かし込む方法もあります。リラックスするようになると弱まりますね。自分が特別な人間でないと考えるとふしぎに静まる場合もあります。


中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、p.184)より。幻聴についての文脈だけど、「外に出す」と「溶かし込む」はプレッシャーに対するときの比喩として全般的にいえそう。わたし個人は「溶かし込む」方法で減圧しがちだ。あまり外に出さない。両方やれるとバランスがよいのだと思う。溶かしたつもりでも結石みたいにすこしずつ溜まるストレスがある。


 治療は山に登ることでなく、加速度がつかないようにしながら、山から下りることなのです。そして戻るところは平凡な里です。山頂ではありません。回復とは平凡な里にむかって、足を一歩一歩踏みしめながら滑らないようにしながら下りていくことなのでしょう。

前掲書(p.190)


精神医学関係の本には、巧みな比喩が多くみられる。心のかたちは、半ば行動にあらわれ、半ば比喩にあらわれるのだと思う。「行動/比喩」は「外に出す/溶かし込む」に対応する。比喩には、人の生きる世界観が行動と不可分に溶け込んでいる。わたしはそう感じる。

「戻るところは平凡な里」。まったくそうだ。「ふつう」ということが良くも悪くも人の精神的な支柱なのだと、身にしみてわかってきた。これは年齢を経ないとわからないことのひとつだろう。「ふつう」を攻撃するとそのぶん、反発も大きい。

怒りとともに「ふつう」に類することばを連発する人は多い。「ふつう、こうに決まってる!」と意固地になる。自分の「平凡な里」を守ろうと。

たったひとりで怒る人はいないんじゃないか。誰もがなにかを代表し、なにかを背負って怒る。「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」って『HUNTER×HUNTER』にも書いてあった。

取り乱すのはみっともないと思われがちだけど、魅力的な怒りもある。もの静かに見えて、絶えず怒っている人もいる。「内に秘めた闘志」みたいなの。仮に、ひとりでは怒りがわかないのだとするなら、怒らない人は孤独な人なのかもしれない。里を失った人。

絶対的な「ふつう」はない。平凡な里の風景も変化する。里同士が合併したり、戦争したりもしょっちゅうある。コミュニケーションはつねに、それぞれの「ふつう」をめぐって交わされる。いまのわたしは、そう思っている。陰に陽に目配せがある。

 

中井久夫の本を読むと、くらくらする。見えない暗部をことばが明るく照らしてくれる。ずっと中井久夫だけ読んでればいいや、とさえ思える。それはそれで偏るか……。受け取ったことばは、経験を通して自分なりにすこしずつパラフレーズしていきたい。

 

 

雨の日がつづく。明日は七夕。スーパーの端っこに短冊コーナーがあった。つかのま願いごとを考えるも、浮かばなかった。なるようになる。

 

 

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