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日記816


 

このように体験はじつにさまざまです。たぶん、名がついているのはごく一部でしょう。

 

ひきつづき、中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、p.24)より。統合失調症の患者がどのような体験をしているのか、いくつか例を挙げたあとのさりげないことば。さりげないけど、重要に思う。名前との距離感ね。診断についても中井は、「治療のための仮説」と語る。「最後まで仮説です」と。名付けて固定することへの警戒心がおそらくある。

これは神田橋條治の「言葉は信用しない」という発言にもつうじる態度ではなかろうか。病名にばかり気をとられると、目の前の患者が見えなくなる。精神科はとくに、システマチックにはいかない。

名前は、お守りのようなものだと思う。患者の多くはたぶん、病名がつくと安心する。でも医者の側からすると、お守りにばかり頼っては実体を見失ってしまう。人は刻々と変化する。むろん名前は名前で、あったほうがよい。しかし、それはあくまでお守りに過ぎない。

これは医療者の心構えとしてのみならず、あらゆることにいえるんじゃないかな。名前をつけると、その対象をコントロールできるかのように思えてしまう。ある程度、わかったつもりになれる。でも、わかったわけではない。「最後まで仮説」という粘り腰は忘れがちだ。「わかった」は手を切ることばで、「わからない」は粘り腰。どちらも必要だけど、後者の必要性はあまり強調されない。

 

 シェイクスピアの戯曲の『ハムレット』に、主人公の王子がお付きの哲学者に「ホレイショ、天と地にはお前の哲学では解けぬものがいくつもあるのだよ」と言う場面がありますが、私はこの「ホレイショの原則」を以て対します。ときにはつぶやくこともあります。「世の中って、わからぬことが多いなぁ。でも、命にかかわることとは限らないなぁ」とか。

前掲書(p.25)


まったく、わからぬことだらけです。
うーん。

たとえば、「プラセボ効果」なる名前を知ったところでわたしは納得しない。「偽薬が効いちゃうのをプラセボ効果っていうんだよ」「なるほど~超納得~」ってなるかーい!!なんで偽薬が効くんだよ。よくわからん。と思ってる。しかし名前を知った時点で納得する人は、なぜか多い。それは答えじゃない。それは答えじゃないよ。



話変わって。

乱数発生法という「精神のゆとり度」をみる指標があるそうです。できるだけデタラメに1から9までの数を言う。それだけ。ゆとりがないと「123456789」と順番通りになってしまうらしい。これも『こんなとき私はどうしてきたか』に書いてありました。

 

みなさんも、ゆとりがないかなと思うときは自分で乱数を発生させてみて、「123456789」になったら、まずたっぷり寝ることです。デタラメを言えるということは、精神にゆとりがあることです。これは一般的な「精神のゆとり度」の指標であって、決して統合失調症に限りません。p.29


お笑い芸人のネタなんかはデタラメを言ってくれるので、見ると「ゆとり」につながることもあるのかも。お笑いネタじゃなくても、ふまじめな人と話すと気持ちがラクになることってありますね。インチキおじさんみたいな人。高田純次みたいな人。急にへんなこと言う人。乱数発生人。

「意識はランダムになれない」という養老孟司のことばを加味して考えると、乱数発生法は意識と無意識のバランスを測る方法なんではないか。完全に規則的になってしまうと、意識に支配されすぎている。だから「たっぷり寝ること」が推奨される。そこそこリラックスして、無意識も呼び出すことができればデタラメに数字を言える。

ほんとうにそういうテストなのかどうかは知らない。このブログの記述はぜんぶ仮説です。最後まで何もかも仮説です。




いつかの日記にも書いたけれど、疲れると入眠時に幻聴がやってくる。ときどきそれで飛び起きてしまう。内容は決まっている。名前を呼ぶ声。でも、統合失調症の幻聴は「ふつう名指しされない」と中井久夫は言う。おそらくわたしの場合、外傷性の幻聴で「これは、過去の現実の声がなぜかいま生々しい臨場感をもって聞こえてくるというかたち」らしい。まさにそう。

具体的な人が生々しく自分の名前を呼んでくる。ひとりじゃない。いろんな人。わたしは名前を呼ばれることに、異様なプレッシャーを感じているのかもしれない。

名前とはお守りであり、首輪でもある。愛であり、暴力でもある。贈与であり、収奪でもある。わたしのものであり、あなたのものでもある。呼ばれることは、自分をすこしうしなうこと。それを無意識の底で恐れる幼い自分がいる。人生、うしなってナンボだろうに。

 

名前をつけるのは、最後の別れを告げるとき。名前があるということは、かつて別れを告げた人がいるということ。あなたにも、わたしにも。



7月7日(水)

クリスマスの雰囲気がなぜ好きなのか、わかった気がする。濡れた街に似ているからだ。濡れた夜の街は細かな光の粒が増えて、やたらきらきらする。クリスマスの電飾はそんな、濡れた街を模しているように見える。

要はクリスマスではなく、濡れた街の雰囲気が好きなんだと気がついた。ふらふら歩きながら。なんで自分はクリスマスが好きなのか積年の謎で、納得のいく理由が見つからなかったけれど、これならまあまあ納得できる。無意識の断片がつながった感触。

雨がちの天気がつづく。明日も雨だそうです。都知事が入院していたことをきょうまで知らなかった。情報のとり方が非常に偏っている。



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