スキップしてメイン コンテンツに移動

日記817


 私がかつて山岳部員として体験したのは、「みんなが同じ荷物を持っていても自分の荷物がいちばん重く感じてしまう」ということです。「そういうものなんだ」ということを、どこかで頭の隅に置いておくことだけでずいぶん違います。自分以外の人の荷物は実感できないのですから。
 家庭の重みもさまざまであって、皆たいていは自分の荷物が重いと思っています。同時に、めったに語りません。芥川龍之介も良寛を引いて言っていますよね。「君みずや双眼の色、語らざれば憂いなきに似たり」と。この言葉も知っておいていいでしょう。

 

中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、p.105)より。たしかに、こういう感覚がある人とない人とでは、ものの見方がずいぶん変わるだろうと思う。

上記はキャッチーに、こうまとめてもいいかもしれない。「重い」と「思い」はおなじもの、と。安っぽいかな。ははは。自分以外の人の荷物は実感できない。同様に、自分以外の人の「思い」も実感できない。交換不可能な「重い」という「思い」がそれぞれにある。語らずとも、つねにある。

キャッチーなワンフレーズは軽みがあって、だからこそつたわりやすい。安いほうが売れやすい、ともいえる。すべてのことばには軽重が備わっている。重いことば、軽いことばがある。ちょっとした言い換えで、人の感覚はおどろくほど変わる。

 

 興奮している人を見て、「この人、タチが悪いな」と思うより、「こうするエネルギーしかないんやな、どうしたらエネルギーが出るんやろう?」と考えるほうが、本人も楽です。じつは、快感のないときには人間の行動は弾みが出てきません。慢性状態はこの弾み、ゆらぎが乏しい。そこから弾みが出てきて、だんだん元気になっていくというのが回復の過程なのです。

(pp.148-149)


「タチが悪い」は興奮している人の重みをずーんとあらわしている。それを「こうするエネルギーしかない」と言い換えれば、いくらか軽くなる。「しかない」がポイントだと思う。興奮状態はエネルギーがあり過ぎるのではなく、これしかない。これっきりだと。認識の枠組みを軽い方向に変化させる。と、余裕ができる。それが自分と他者に「弾み」や「ゆらぎ」をもたらす端緒となる。


 疲れには「やわらかい疲れ」と「かたい疲れ」の二種類があって、やわらかい疲れは、じつはリラックスしてきたけれど、それをいい感じだと受け取れない。つまりかれらは、これまであまりリラックスしたことがなかったか、からだが覚えていないほど緊張していたのでしょう。だからリラックスした状態を快いと感じられない。だから「どちらですか」とたずねて説明します。じつに九割以上が「やわらかい疲れ」なのです。

(p.145)


「疲れが出るほうがだいたい後がよろしい」と中井久夫は話す。疲労感は回復の指標でもある。疲労ってのはなんかこう……「もどってくる」感覚なのだろう。「緊張がゆるむと痛みを感じはじめる」という。つまり、痛みがもどってくる。

「やわらかい疲れ」は、ふわふわとまとまらない感じ。「かたい疲れ」は、ぎゅっとまとまってしまう感じ。だろうか。わたしの理解ではこんな感じ。どこまでも「感じ」だけど、感じの話なのだからしかたがない感じ。ようするに「かたい」は緊張で、「やわらかい」は弛緩。


 患者さんが「やわらかいしんどさだ」と言ったら、いや、それはリラックスというものだと相手の訴えを全否定するのはどうでしょうか。「うーん、それはリラックスというものかもしれないよ」と私なら伝えます。「だけど、きみはしばらくリラックスしなれていないからな。え、ずいぶん長いこと? だからしんどいと感じているんだね。無理ないよね。少し待ってごらん」と。

(p.168)


「全否定」は、ちょっとした緊張感を注入する効果があるのだろう。そうやって、体をまとめ上げる方向へ導く。いわば、重みを与える。「全否定」ということばは重い。でも重すぎないように、推測として「うーん、それはリラックスというものかもしれないよ」と。おそらく「うーん」があるのとないのとでも、つたわり方がぜんぜんちがう。

中井久夫はさりげなく、「いや」を「うーん」と言い換えている。否定語をニュートラルに。「あなたのことばを受けて、わたしはこう考えるよ」というメッセージが「うーん」にはこもっている感じがする。否定するにもまず、「聞いたよ」とつたえる。「うーん」はそんな態度をすっとあらわすかたちではないかな。

さりげなくでも「聞いたよ」を挟むことで、否定感は薄まる。否定的な意見を述べるとき、わたしはかならずそうする。いきなり「いや」からはじめない。中間的ないし肯定的な態度をさしこんでから、否定へとことばを傾ける。なにより、そのほうが聞いてもらいやすい。

「リラックスというもの」。この言い回しも、おもしろい。知らないふり、というか。いっしょに発見する感じかなー。名前のないもの、わからないものに枠組みを与えるように。「リラックス」を発見する人は医者ではない。患者なのだ。「あなたの発見を手伝おう」と、そんな態度がうかがえる。

たったひとことに、これだけのものが詰まっている。勝手に深読みしまくっているだけかもしらんけど、たぶん詰まってる。すくなくともわたしは、これだけのものを受け取った。じつは図書館で借りた本だけど、読めば読むほど買うしかない思いがつのる。


以下のような、小ネタもたのしい。

 

また五〇年前に私が使った阪大の吉井教授の生理学教科書によれば水そのものに中枢神経の興奮作用があるそうです(この本にはいろいろおもしろいことが書いてありました。食べ物の入口だけでなく出口にも味覚があって、少なくとも塩味は感じるとか)。

(p.85)


真偽は措くとして、肛門にも味覚があるらしい。ほんとかなー。水に興奮作用があるという指摘もおもしろい。



7月9日(金)

ドラッグストアにオリンピックのグッズコーナーがあった。大安売りしていた。なんともいえない気持ちになる光景だった。きのう、友人からのメールでふたたび緊急事態宣言が出ることを知った。どうにも止まらないって感じだ。なんもかも。歩きながら、大島弓子の「バナナブレッドのプディング」を思い出した。


だれか 
もつれた糸をヒュッと引き 
奇妙でかみあわない
人物たちを
すべらかで
自然な位置に
たたせては
くれぬものだろうか


漫画の文脈とは関係なく、こういう気分になることは多い。むかし藤村操という人が “萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」” などと書き残して華厳滝から身を投げたそうだ。これもたまーに思い出す。

「巌頭之感」と題された遺書には、ひとつ前の記事で中井久夫の本から引いた「ホレイショの哲学」への言及もある。中井はそこから「世の中って、わからぬことが多いなぁ。でも、命にかかわることとは限らないなぁ」とつぶやくのに対し、藤村は死んでしまった。ただ、遺書のさいごにはこうある。「大なる悲觀は大なる樂觀に一致する」と。

そういうものかもしれない。「自殺を心に決めた人は明るくなる」という話を想起する。精神科医の北山修は「ちょっと憂うつくらいがちょうどいい」と述べていた。それもそうなのだろう。あるいは「一致」よりも、ちょっとズレてるくらいがきっとちょうどいい。弾んでゆらぐために。

「ちょっと憂うつ」と聞くと、「豚頭麗香の少しだけメランコリー」が思い出される。伊集院光が深夜ラジオでやっていたコーナー。豚頭麗香は、なにかの原体験をもたらしてくれた。しかしそれがなにかはいまだにわからない。

 

夜、近所を適当に散歩した。雨が降ったりやんだり。こどもが懐中電灯で空を照らしていた。空は暗いままだった。



コメント