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日記819


文芸誌『群像』の2021年8月号を図書館でちらっと読んだ。いま出てるやつ。ちらっと。具体的には穂村弘の連載と永井玲衣のエッセイと、小特集「ケア」だけ。永井さんは哲学の研究者で、さいきんなんとなく名前を追っている。

 

 存在することは、いたたまれない。存在は、白々しい。誰もがみな存在はしている。だが、ただ存在するというのは努力がいる。何かに「なる」、何かを「する」ことは容易であるが、「ある」ことは難しい。それで、ただ存在するという運動を、ひとりではじめることにした。

 

「ただ存在するだけ運動」と題されたエッセイの書き出し。勝手な見立てに過ぎないけれど、永井さんの方向性がよくあらわれている。気がする。

「容易」と「難しい」を提示したうえで、難しいほうへ正面から突っ込む。そういう人物。逆へ行ってもいいのに。すくなくとも真っ向からぶつからなくたっていい。「ある」ことは難しい。ならばそんなことには蓋をして、海賊王に俺は「なる」!とぶち上げても差し支えないはずだ。急に、“ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)”をめぐる海洋冒険ロマンのほうへ舵を切っても。いや、差し支えあるか……。すり替え過ぎ。

ともあれ、目の前に容易なことと難しいことがあれば容易なほうへ流れたい。それが人情だろう。見通しの立つ方向と見通しの立たない方向があれば、見通しの立つほうへとすすみたい。しかし、そうはしない。冒頭の数行から、永井さんの方向感覚がわかる。いたたまれなくて、白々しくて、努力がいる、難しい方角を選ぶ人なんだなーと。しかも、とうぜんのように。 

たしか丸谷才一がどっかで「接続詞は方向指示器みたいなもの」と語っていた。引用した永井さんの文中では「だが」と「それで」。とくに「だが」という最初の逆接が効いている。この時点で行く方向がわかる。「それで」は「だが」の言い換えだろう。「難しいほうを選ぶ人」は逆接を選ぶ人でもある。難しいことは知りつつ、だがこっちへ行く!と。でもやるんだよ!と。

わたしの考えでは、接続詞にもっとも自意識があらわれる。著者の行きたい方向があらわれる、ともいえる。小説家の保坂和志も似たような話をしてたっけ。「わたしの考え」じゃないかもしれない。

 

保坂 (…)僕も「接続詞を一個も使わない文章」というものを自分で試しているんだけど、なかなかうまくいかない。前提として接続詞というものは、読む人に向かって「しかし」とか「だから」といっているわけじゃないんですよ。あれは、自分に向かっていっているんだよね。

千葉 そうですね。接続詞がなくたって、読者はつながりを読み取りますからね。

保坂 書き手自身が次に何を書くかということを、自分の心の中で調整するために接続詞を使っているんですよ。

第2回 言葉をまともに使う危うさに気づいているか | 千葉雅也×保坂和志「響きあう小説」 『デッドライン』刊行記念トークイベント | 考える人 | 新潮社

 

この分析は、丸谷才一が語る「方向指示器としての接続詞」にもつうじるかと思う。ウィンカーを出す理由はまず、安全に自分の行きたい方向を知らせるためだ。それによって読者も安全に読める。「接続詞を一個も使わない文章」は方向感覚を喪失したかのごとき文字列を指すのだろう。いわば危険運転。

基礎的なことかもしれないけれど、接続詞(というか、広く文と文の接続関係)を注意深く読むと著者の方向性が見えやすい。いま、あらためて感じた。書くときもそう。自分がどの方向に行きたいのか。あるいは、どの方向を避けようとしているのか。

 


 「ただ存在するだけ運動」から、気になってメモした箇所をもうすこし引きたい。

 

役割をもつことや、成果を出すことだけが生の価値ではないことはもちろん分かっている。

 

この一文における、「もちろん」。ここにも著者の世界観がにじみ出ている(気がする)。「もちろん」は副詞だけど、文脈によっては接続詞の要素も混じる。よく逆接とセットになる。「もちろん、その通り。しかし~」というかたちで。

役割や成果にとらわれがちだが、生の価値は「もちろん」それだけではないと。これって、「もちろん」共有済みのことなのか、わたしは疑問に感じた。逆に「役割をもって、成果を出すことだけが生の価値だ」と信じている人も多いのではないか。というか、そっちのほうが多数派なのではないか。肩書きをもった社会人として生きることにだけ、価値をおいている人が大勢を占めているようにわたしには思える。

しかし永井さんの世界観では、役割や成果のともなわない生の価値が「もちろん」ある。わたしがおなじ一文を書くとしたら、「もちろん」は削る。あってもなくても意味は通るから。余計な念押しだと思う。でも、永井さんは削らなかった。往々にして、余計な部分が書き手の価値観を物語る。

「余計な部分」とは、力んだ部分ともいえる。あるいは緩んだ部分。どちらか。「もちろん」には、力が入っている。願望も込みの記述だろうか。役割や成果にもとづく「社会人として」だけが生の価値ではない。もちろんみんなわかっているはず、そうあってほしい、と。

この「もちろん」がわたしには、不安げな響きをともなってつたわる。すこしの焦燥がふくまれている。ちょうど「ただ存在するだけ運動」が当事者のみならず、その周囲にも不安をかきたてるように。

 

 不安を感じるのはわたしだけではない。街を行き交う人々もまた、不安な面持ちでわたしを見つめる。住宅街の中に忘れられたようにある公園などでただ座っていると、太陽がじわじわ自分の肌を灼いていくのと同じくらい、たまに通りかかる人々の目線が自分の存在をちりちりと灼いていくのを感じる。「何かをしている」よりも「何もしていない」ことの方が不自然であるというのは、奇妙な逆説だ。

 

もしかすると「何もしていない人」は、妖怪みたいな存在として認識されるのではないか。公園でひとり、ただ座っている女性を想像して思った。どこか、おばけ的なものに近づくような。わかりやすい因果関係の外側に位置する、あやかし。

つまり「不自然」というよりも、「超自然」になるんではないか。何もしていないと人はやがて、超自然的な存在になる……。仙人がわかりやすい。ヤツは霞を食って生きる。

水木しげる先生が歌詞に書いたように、おばけにゃ学校も試験もなんにもないし、会社も仕事もない。死なないし、病気もなんにもない。おばけは健康だ。「何もしていない」は最高に健康的なふるまいであり、「何かをしている」はそれだけで不健康なんだと思う。そしておもしろいことに、世間では不健康なふるまいが自然なのだ。あんまり健康だと、不安にさいなまれてしまう。ここにも奇妙な逆説がある。

「ただ存在するだけ運動」がもたらす不安はつまり、健康への不安でもある。何もしていなくとも、生きていていい。存在するだけでいい。これ以上に健康的な価値観はない。しかしそれだと不安になってしまう。健康が不安の種をもたらす。へんな心理がある。そういうとこあるよ、人間。

これは永井さんがよく名前を挙げておられる哲学者サルトルの、「人間は自由の刑に処せられている」と紐付けて考えることもできるだろう。

じつはわたしもサルトルに惑溺していた時期があり(18歳くらいんとき)、そのときは戯曲『出口なし』の有名なことば「L'enfer, c'est les Autres(地獄とは、他人のことだ)」をメールアドレスにしていた。こまっしゃくれて皮肉めいたすごく嫌なメールアドレスだと、いまふりかえって思う。

 

そんなこんなで……関心領域が似ている気がするため、さいきん知った永井玲衣という名前をなんとなく追うことにしたのだった。


 

 

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