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日記821


平日は2食、活動量のすくない休日は1食の生活を2ヶ月くらい前からつづけている。欠かさず2食を、もうちょっと臨機応変にした。動かない日は、食べなくていいんじゃないか。むろん個人の身体感覚にもとづく判断なので、おすすめはできない。

飢餓感に対する強迫観念があまりない。いうまでもなく、水分はこまめにとる。ミネラルウォーターや、炭酸水。あるいは、リンゴ酢に塩とハチミツを加えて水で薄めたジュース。ココア。緑茶。薄めた牛乳。など。なんでも薄めがち。

「外食したときは、足りない野菜を家でとる」という知り合いの女性がいる。「美容は内臓から」と言っていた。一部では常識らしい。じっさい、お綺麗な方だ。わたしも美容のためではないが、意識的に内臓のことを考慮する。腹の底をクリアにしたい。

入れたいよりも、出したい気持ちが強い。摂取より排泄に気をつかう。排泄のための摂取。空腹でいたい。文字通りstay hungry。人生はからっぽである。仏教的な考え方にも惹かれがちだ。でもわからない。ゴータマさんの教えとはまったく異質な感興かもしれない。

他者と接するときも似たような心構えでいる。「ぜんぶ出しちゃってくれ」みたいな。「否定しない人」と言われる。そんなこともない。たぶん、考え方が逆説的なのだ。否定性に肯定を見て取り、肯定性に否定を見て取る。価値観をずらす。これは悪癖でもある。

ただ、人のことばをむやみに奪うような真似だけはするまいといつも肝に銘じている。安心感を何よりも優先する。できるかぎり何でも話せるように。そのほうが創造的で、おもしろいやりとりが成り立ちやすい。自分の態度は、自分が社会にもとめている理想の実践にほかならない。「社会人」とは、そのような実践者を指すものと信じる。

わたしの思う「安心感」は、快適な距離感のこと。それはとうぜん、人によってちがう。個体ごとに適切な近さ、遠さがある。安心に足る明度や温度感もそれぞれちがう。個人的には遠めで暗めで冷やっこい感じが居心地よい……。

「合う合わない」は厳然とある。育ってきた環境がちがうから、好き嫌いは否めない。夏がだめだったりセロリが好きだったりするのね。妥協してみたり多くを求めたりなっちゃうね。しかし、対話は基本的に好意の原則(principle of charity)から始まることも忘れてはならない。


この好意の原則を平易にいえば、ひとの発言を理解しようとするとき、そのひとの言っていることを基本的に正しいとすることである(富田恭彦)。批判的思考を行うためには相手のいうことを正しいとみなしたうえで、さらにつじつまが合うように解釈しなければならない(野矢茂樹)。これは「共感的理解の原則」ともいわれ、相手を批判する前に自分の理解そのものを批判の対象とすることである。 

批判的思考 - Wikipedia


過去の日記でも何度か書いたけれど、原則「みんな正しい(と、みなす)」。やれるだけ、がんばってみる。話はそこからなの。すこしだけなんだかんだいっても、つまりは単純に君のこと好きなのさ。批判するにしても。好きなの。

好意の原則は、セロリの原則ともいえよう。もしくは、まさよしの原則。



 用もないのに外をうろうろしたり、公園のベンチにずっとすわっていたりすると、日本ではすぐに社会からはみ出した者のように見られてしまう。屋外にいるだけで社会からはみだしてしまうというのはどういうことなのか。


多和田葉子『言葉と歩く日記』(岩波新書、p.11)より。前々回の記事でとりあげた、「ただ存在するだけ運動」に関連して思い出した記述。


 「外」という日本語には楽しさが感じられない。むしろ不安を感じさせる。わたしの言う楽しい「外」は「アウトドア」に近いが、この外来語には少し商業的な手垢がついていて、キャンプ用品やスキー用品を買わないと自然に触れてはいけないような気にさせるところが気になる。カタカナなしで、ただ「外へ遊びに」行けばいいのではないのかと思う。子供のように。

同書(pp.10-11)

 

たしかに大人になってから、誰かとただ外で遊ぶことがなくなった。まるで義務感に駆られるように、どこかでお金を使う。ひとりならわたしは一銭も使わずに外で遊べる。でも誰かといると、それでは申し訳ない気がする。お金を使わないと。こんな気持ちが芽生えたのは、いつからだろう。知らないあいだにそうなっていた。

「外」という日本語には楽しさが感じられない、と。おもしろい洞察だと思う。「内/外」は「友/敵」のようなニュアンスも帯びている。「大人/子供」でもあるのだろうか。大人は社会の内側にいる。子供は社会化されていない、アウトサイダー。

大人にとっての「外」は不安感の象徴であり、子供にとっての「外」は楽しいものだ。成長するにしたがって感覚が変化することばだといえる。もしくは、年甲斐もなく子供っぽい気分でわくわくするとき、「外」は楽しい。子供でも内省的で大人びた性格だと、「外」をこわがる。

「外」は「大人/子供」の立場によって微妙に価値が変わるのだと思う。実際の年齢によらない、精神的な立場でも変わる。わたしはひとりきりなら、子供でいられる。つまり、外を単純に楽しめる。手ぶらでゆるゆる歩くだけでもけっこう楽しい。だけど誰かといるときは、大人をやっている。つまり、ドメスティックな社会性とともに出かける。お金と、目的を携えて。


目的なく街をふらつく人間はそれだけで、はみ出し者なのだろう。おおげさにいえば犯罪的なおこない。職務質問の対象になる。「ただ存在するだけ」って難しい。今夜は夜風が涼しくて、月がきれいだ。でも窓を開けていると、おとなりさんの室外機がうるさい。仕方がないので、こちらも負けじと冷房をつけることにする。



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