スキップしてメイン コンテンツに移動

日記823


 

踏切にパイナポゥ。

 

 

 

今朝、小泉今日子の「夏のタイムマシーン」が頭ん中で流れてた。


夏のタイムマシーン 少女の私に伝えてよ
あの日探してた答えは今も出せないけど
夏のタイムマシーンだいじょうぶだよと伝えてよ
あの日輝いてたその瞳に負けないくらい
一生懸命泣いて 一生懸命悩んで 
一生懸命がんばっているから

 

 

 

連絡をくれる若い人には、こんな気持ちで接する。答えは出せないけど、だいじょうぶだよ。つまり、「ウォウウォ、ウォウウォ~」だよと。あの日の、少女のわたしに伝えるように。いちおう年食った人間として、そういうことも考える……。何周も考え抜いたすえの「ウォウウォ、ウォウウォ~」である。

ところで『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』(春秋社)という本のなかに、「他者」をめぐるおもしろい思考実験の話があった。藤田一照・永井均・山下良道の鼎談本で、以下の引用は哲学者の永井均氏の発言。

 

もし、本当に世界に自分一人しか存在しないとします。地球上に一人だけ残されたとします。文字通り一人。いや、残されたというのはまずいな、最初から一人しかいないことにしましょう。他の動物などもいないとしましょう。食べ物はあってともあれ生きてはいける。知的能力などもなぜかあることにします。そういう状況を考えてください。たまたま想像力豊かな人間で、他人がいる可能性を想像するとしたら、自分と同じような体を持っていて、自分と同じように眼が見えたり、痛みを感じたり、感情を持ったり、考えたりするやつを、ということでしょう。 でも、もしそういうやつがいたら、そいつはもう一人の自分じゃないですか。だって、自分と同じように、現実に眼から世界が見えたり、現実に痛みを感じたり、感情を持ったり、考えたりするんでしょう? そういうやつがいるということは、もう一人自分がいる、つまり自分の体が二つある、という意味になりますね。そうとしか考えられないはずです。p.160

 

おそらく実際の世界における他者も、「もう一人の自分」として想定せざるをえない部分はあるのではないか。未知の他者であれ、コミュニケーションをとるためには多少なりとも共感的に「もう一人の自分」と想定しないと端緒がつかめない。わたしの感覚だと、程度に個人差はあれど、誰もが「もう一人の自分」を想定しながらことばを使っているように思える。言語は鏡像でもある。

身も蓋もなくいえば、相手が「もう一人の自分」として上出来なら仲良くなったり好きになったりする。不出来なら、傷ついたり怒ったり悲しんだりする。単純に、そういうものなんではないか。という気がする。乱暴な話だけど……。単純すぎるかなー。

「もう一人の自分」は可塑性が高いので、どう想定することもできる。言い換えると「そうであったかもしれない自分」の姿だ。あるいは、未来に「そうであるかもしれない自分」。仮定法の世界をいかに思考するか、ことばの鏡に何をうつすか、それはオリジナルの自分しだい。

みたいな人間観で、自他を見ている。どんな人も自分のバリエーションなので、学ぶところは多い。といってもやはり、自分はひとりだ。誰も彼もひとり。この点は大前提として、部分的には以上のようにも感じるしだいです。

 

 

コメント