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日記824


 

ここんとこラルフ・ジェームズ・サヴァリーズという人の著書、『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(岩坂彰 訳、みすず書房)を読んでいた。きょうから数日かけて、この本についてちょこちょこ書こうと思う。書評にも感想にも満たない、寝る前の短いメモとして。

はじめに盲目の詩人、スティーヴン・クーシストが文章を寄せている。そこから引く。

 

アメリカのある有名大学で教職を得るための面接を受けたとき、創作学科のひとりの教授が、もしあなたは目が見えないのなら、どうして世界をそれほど明瞭に描けるのかと尋ねてきた。法に触れるぎりぎりの質問だったが(この教授は私が盲目を装っているとでも思ったのだろうか)、その質問自体が現代の一部の作家が言語の最も根本的なレベルの働きについていかに理解していないかを露わにしていた。彼は、すべての名詞はイメージであるとは思いもしなかったのである。この教授は著名な作家で、私がそれに答えて言った内容をとうに理解していてしかるべきだったと思う。「私が苺と言う。あなたは苺を見る。私が戦艦と言う。あなたは戦艦を見る。私がそれに相当するものを見ているかどうかということは、あなたの受け取り方には何も関係しないのです――だからこそ、詩人は古来、魔術的と信じられてきたわけです」。もちろん、目の見えない人も見える人とまったく同じように心的イメージを生み出す。このことは、現代の神経科学が立証している。網膜の働きは必要ないのである。

 

このエピソードをノートに筆写したあと、次のような走り書きを加えた。「ことばを扱うとき、誰もが盲目になる」と。クーシストに「法に触れるぎりぎりの質問」を投げかけた著名な作家でもある教授は、まるで自分が盲目だと気づいていない盲人のようではないか。見えていないことを忘れている。だから不用意にぶつかってくる。それに対して、意訳するとクーシストはこう述べている。「あなたも、ことばのうえでは盲人と変わらない」。

ことばは世界そのものではない。世界観の反映である。どこまでいっても、世界そのものにはなりえない。「光あれ」と書いて、実際に光がキュピーンと満ちてくるわけがない。わたしたちはいつだって盲人のように書き、盲人のように読む。盲人のように話し、盲人のように聞く。見えない何かを。

 

 

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