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日記826

 

 

前提において重要なこと。

 

 

実際、自閉症者と非自閉症者の情報処理には明らかに違いがあると思われるが、他面、どのふたりの自閉症者も、あるいはどのふたりの非自閉症者も、完全に同じようにものを考えることはない。

 

ひきつづき、ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)より。便宜上、「自閉症者」「定型発達者」などとひとくくりに書くけれど、いうまでもなく人間は多様だ。現実は論理的にきっちり整理できるほど、ぴったりしていない。この世界の大枠はまったく言語的なものではないし、人間的なものでもない。すべてのカテゴリーは便宜である。


人々は見た目から多様です。街を歩きながら、よく思う。みんなちがって、みんな奇妙。ばかみたいだけど、まいにち思う。

いうまでもなく多様なのに、わざわざ「多様性!多様性!」と言い募るのも奇妙でおかしい。どうやら、頭ん中は多様じゃないらしい。見たまんま多様でも、見えない部分でどこか同質だと思い込んでいる。おもしろい。皮肉ではなく、文字通り興味深い。ヒトの知性は基本的に模倣を旨としている。あらゆるところにパターンを見出そうとする。


自閉症の専門家はようやく最近になって「限定された興味」を、自閉症者と交流し、彼らをより定型的な社会性の中に引き込む手段として推奨し始めた。こうした形の興味は、良くても無意味、悪ければ有害であると常に考えられてきた。「限定された興味」という考え方が明らかに皮肉であるのは、これがたとえばフェイスブックやテレビ視聴やショッピングなど、あらゆるニューロティピカルな行動にも容易に当てはまることである。


自閉症者も非自閉症者も、ひとしく興味は限定されている。わたしもそう思う。ただ、「限定」の性質がちがうっぽい。パターンの性質ともいえるかな。上記ふたつの引用は巻末の原注から。注釈に熱のこもった記述を見つけると、おまけをもらって得したような気分になる。


研究者のティム・ラングデルは、ニューロティピカルが「対人関係のパターン」を見るのを得意とするのに対し、自閉症者は「純粋なパターン」を得意とすることを明らかにした。「純粋なパターン」は、一見したところ隠れている。自閉症の少年が装飾付きの枕をラビオリと呼んだことが示す通りである。それは社会的に割り当てられ、受け入れられているものの意味づけとは一致しない。それゆえ、想像力を生み出すもととなる。グランディンがかいているように、「レンガの今までにない使い道を考え出すコツは、レンガとしての本質にとらわれないこと。レンガではないと考えなおすのだ」。pp.113-114

 

たしかに、ラビオリは枕だ。自閉症者はつまり、機能的固着にとらわれない思考を得意とするのだろう。ラビオリと枕は、機能的には関係ない。かたちだけ似ている。

哲学・倫理学者の古田徹也さんが以前、トークイベントで「個人的に中井貴一さんの顔はゲシュタルト崩壊しやすい」とおっしゃっていた。これは中井貴一としての本質にとらわれない、中井貴一の今までにない見方である。このような感覚も「純粋なパターン」のひとつと呼べるのかもしれない。ちょっとちがうか。個人的な純粋性。思い出したので書いてみた。

自閉症者か否かは関係なく、言ってもしょうがないような、あまり意味をなさない謎の(ゆえに創造的な!)連想は誰でもしていると思う。その頻度と、それを捨象するかしないかが人によってちがう。濃度というか、重みづけというか……。

 

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