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日記828



「意識する」を意識してみる。意識って「する」のだな、と改めて意識すると新鮮だ。「野球しようぜ!」みたいなノリで「意識しようぜ!」と言いたくなる。「野球しようぜ!」はつまり、「野球を意識しようぜ!」ってことだろう。「なにかをする」とはすなわち「なにかを意識する」ことだ。わたしたちは意識をさまざまに変形させながら生きている。意識プレイングゲームみたいなものだと思う、人生って。コントローラーは共用なのよね。ひとり用ではない。


 

……で、またラルフ・ジェームズ・サヴァリーズの『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)から、メモしておきたい。

 

ローラン・モトロンの知覚機能亢進説によれば、自閉症者はこのようなレベルの入力を利用する能力が高い。その入力は意識に上りやすいだけでなく「トップダウンの処理に関して……より自律的である」。言い換えれば、彼らの前頭葉は感覚情報を人種や民族のカテゴリーなど優先的な高次の要素の下に即座に振り分けたりしない。おそらくその結果、個別化が行き過ぎる。逆に、ニューロティピカルは、少なくともその多くの人は、個別化をしなさすぎるという問題を抱えている。ニューロティピカルは他者について単一感覚による表象を持つ。それゆえ、彼らの自然な処理傾向を克服するには、多感覚による効能促進剤のようなものが必要なのである。
 自閉症者は「視覚に関係する皮質領域の活性化が増大」し、「前頭皮質の活動が低下」している――別の言い方をすると、局所的な接続が過剰で全体的な(離れた領域との)接続が不足している――という説明は、考えてみると皮肉である。ニューロティピカルの脳について、科学者は適切に接続された脳と考えているわけだが、その脳が生み出す社会は、少なくとも現実に存在する特徴に関しては、けっして適切に接続されてはいない。p.235


へたな抜き出し方で申し訳ない。ここだけ読むと文意がとりづらいかもしれない。

ようするに自閉症者は個別化が行き過ぎ、そうではない人は一般化が行き過ぎる傾向があると。具体と抽象のちがいともいえる。「考えてみると皮肉である」の含意は、自閉症者のほうがよほど具体的な現実を生きているんじゃないの? ってなところか。ニューロティピカル(定型発達者)は適当にかっ飛ばして考えるのが得意なのね。だから物事を高速に処理できる。

抽象的な早い処理と、具体的な遅い処理。どちらも社会に必要な知性だとわたしは思う。しかし遅いほうはあまり評価されない。時間をかければそのぶん深く繊細に思考できる人は、意外なほどたくさんいる。なんでも早けりゃいいってもんじゃない。



話を急旋回させる。いま読んでいるデイヴィッド・ベロス『耳のなかの魚 翻訳=通訳をめぐる驚くべき冒険』(松田憲次郎 訳、水声社)のなかに、興味深い引用があった。


未開人は、ある特定のものを切る行為をそれぞれが表現する、独立した語を二十も有するが、切ること一般を表す名称はもっていないことが多い。彼らは、鳥や魚や木のさまざまな種類をそれぞれ表現する語を有するが、「鳥」、「魚」、あるいは「木」に相当する一般的名称はもっていないことが多い。p.159

この記述は19世紀末に活躍した英国の歴史家、エドワード・ジョン・ペインの著書から引かれている。ベロスによると、帝国の行政官たちは自分たちの「文明化した」言語と、植民地の原住民が話す「未開の」言語を翻訳=通訳しようとしたが、それは不可能であったという。言い換えれば抽象化に長けた言語と、どこまでも具体的な言語との相克だろう。かくして「文明化を促進する任務」のために、原住民の言語は抑圧されていった。


長期にわたって全ヨーロッパ的に「標準語」に向かう動きがあり、それは、政治的意思、経済統合、都市化、そのほか現実世界で働くさまざまな力によってのみ促進されたのではない。そこにはまた、一部の言語のみが文明化された思考に適しているという深い信念があったのである。p.160

一部の知性のみが「社会的」とされる謎の信念にも、植民地政策とちかいものを感じる。「標準化」は根深い問題で、時代が変わっても同型のあやまちを人類は犯しつづけている。たぶん、認知的に(あるいは、言語の構造的に)ある程度は仕方がない問題なのかもしれない……。サヴァリーズの本にも、注釈にこっそりこんな記述があった。


私の息子やその他の自閉症者に対する人々の反応を見て、「ダイバーシティ」モデルの限界を思い知らされた。このモデルでは、人々の違いをしぶしぶ認めながらも、人種、民族、性、階級、認知における標準があるという考えを捨て去ろうとしないことが多い。

 

なんにおいても、どこかに標準がある。あってほしい。斉一のカテゴリーに準拠すべき。これは広い意味での信仰の問題ともいえる。『個人はみな絶滅危惧種という存在』(集英社)という舟越桂の本のタイトルが好きで、その通り、個人はみな絶滅危惧種なんだけど、それだけではやってけないのよね。社会規模がデカイからかなー。

うーん。むずかしいね。


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