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日記830


アーサー・ザイエンス『光と視覚の科学 神話・哲学・芸術と現代科学の融合』(林大 訳、白揚社)をぱらぱら読んでいた。古本屋で買って、1年くらい読まずに積んでいた本だ。97年9月の初版。著者は物理学の教授。でありながら「物理学者がすべて詩人であればよいと思う」と述べたりする。とどまらない人。

目に止まった部分を軽くメモしておきたい。


 私たち自身の文化も昔はそうだったのだが、伝統文化は、ケンブリッジの人類学者アーネスト・ゲルナーの言葉を使うと、「多数の要素をもつ」ものだった。ヌエル族のニロート部族に属する人が、キュウリを見て大真面目で雄牛だと言ったとしても、けっして論理的矛盾に陥っているわけではない。なぜなら、多数の要素をもつ精神世界に住んでいるからである。野菜としてのキュウリという要素はトーテムとしてのキュウリという要素に織り込まれているが、これと混同されているわけではない。西洋の歴史は、意識のさまざまな要素の分離が大きくなっていく歴史、感覚的、物質的なものから道徳的、精神的なものが分離していく歴史、ニロート部族の人間が感じる統一性が失われていく歴史である。pp.385-386

 

いまもなお、「意識のさまざまな要素の分離が大きくなっていく歴史」の途上なのだと思う。これを読んでわたしは、サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』のなかにあった、自閉症者が枕をラビオリと呼ぶエピソードを思い出した。

単純にイコールでつなぐのもどうかと思うが、キュウリを雄牛と呼ぶニロート部族の思考形態と似ている。分離を旨とする「ニロート部族の人間が感じる統一性が失われていく歴史」は、そのまま「自閉症」と呼ばれる「症候」がスペクトラム性をともなって見出されてきた歴史でもあるのではないか。精神科系の症候のありようは、時代の変化とすくなからずリンクしている。「多数の要素」が分離されゆく時代の症候。

キュウリはキュウリであるだけではない。わたしがわたしであるだけではないように。

そういえば日本でも、キュウリやナスを牛や馬に見立てる風習がまだ残っている。お盆に見かける精霊牛、精霊馬。平安時代から始まった文化だという。いまどき、やる家は減ってるのかなー。わからない。「大真面目で」やる家はあまりないだろう……。習慣として、やる感じ。おそらくこれも始まった当初は「大真面目」だったのだ。真剣に供物としてキュウリやナスを牛や馬に変え、捧げていたにちがいない。


コメント

anna さんのコメント…
キュウリは雄牛じゃないことは明らかだと思うんです。だから、キュウリが雄牛だっていう論理は、どこかが間違っているんじゃないかと思います。単純すぎ?

子供の時に住んでた長崎では、お盆にお墓参りをしてそこでみんなでできるだけ派手に花火をするっていう風習があります。13日の夜とかみんながお墓参りして花火するので、遠目でみると墓地は綺麗でにぎやかです。
関西に来てお盆のお墓参りに行くのに「じゃあ、花火かってこなくちゃ!」って言ってしまい「何言ってんの?」ってひんしゅくをかってしまったことがあります。長崎だけの風習だってしりませんでした。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そうですね。

“野菜としてのキュウリという要素はトーテムとしてのキュウリという要素に織り込まれているが、これと混同されているわけではない。”とザイエンスは書きます。

野菜としてのキュウリ、雄牛の象徴としてのキュウリ。ふたつの観念はわかれており、混同されているわけではないと。「雄牛」は比喩的な見方ですね。しかしこうしたわかり方は、いかにも分離的です。直喩的ともいえます。比喩としてのキュウリを明確に腑分けして「キュウリは雄牛のようだ」と理解する。「キュウリは雄牛だ」は隠喩です。比喩であると明示しない比喩。

“昔の文化はどれも、その起源と歴史を、神聖な糸と世俗の糸の両方から織り上げられていて、創造、破壊、移住についての多次元的な神話を形づくるものとして理解してきた。”と、ザイエンスはつづけます。

野菜としてのキュウリは世俗の糸です。雄牛としてのキュウリは神聖な糸。言い換えれば、物質的なものと精神的なもの。この両者はもともと、わかれていなかった。科学文明以前の人々は、神話ベースで世界を理解していました。隠喩が現実の反映だった。

ロジカル(分離的)な世界の語り方と、メタフォリカル(融合的)な世界の語り方があるんです。論理を中心とする解釈と、隠喩を中心とする解釈のちがいです。わたしはこのふたつを同列にとらえています。

……以上の説明は論理を中心とした解釈のしかたです。あくまで翻訳を経た、わたしたちの考え方であって、もともとの部族の考え方とは性質がちがいます。ほんとうはこんな説明など不要で、ただキュウリは雄牛なんだと思う。もっともっと単純に受け入れていいんです。わからないまま不分明に。キュウリは雄牛です。


お墓で花火、愉快ですね。うらやましい。いちど京都の宮津で、灯篭流し花火大会に参加したことがあります。これも弔いの儀式ですね。鎮魂のために火を使う風習はかたちを変えて全国にありそうです。花火はパワーアップしたお線香みたいな感じかな。お墓参りは静かにやるイメージが大半でしょうから、パワーアップはひんしゅくかもしれませんね。