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日記831


 ジェイミーと話していると、自分がなぜそもそも文学にのめり込んだのか、その理由のひとつを思い出す。文学は逆説の宝庫なのである。そこでは逆説は解決される必要がない。逆説は、いくつものことがらを同時に考えるやり方であり、言語のカテゴリーの制約を超え出て行くあり方なのである。「障害(無能)」(ディサビリティ)という言葉を考えてみよう。自閉症は障害(ディサビリティ)なのか。ひょっとすると無能化する能力(ディセイブリング・アビリティ)なのか。あるいは何かを可能にする障害(エネイブリング・ディサビリティ)なのか。pp.107-108


休み休みつづけます。ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)より、メモ。

わたしが文学的な語り口に惹かれるときも、たいていそこには逆説がある。わかりやすい例では、江戸川乱歩の「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」みたいな、寄る辺を反転させる物言いにおもしろみを感じる。別種の現実を、そっと耳打ちするような。

上記の「障害」の言い換えから、渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書)を思い出した。この本は自閉症とはぜんぜん関係ないけれど、『嗅ぐ文学~』と併読してみると個人的には非常におもしろい。どちらも障害(disability)を能力(ability)に転換させていく逆説に満ちた語り口で、ふしぎなほど共通項も多く見つかる。

『今を生きるための現代詩』より、思い出した箇所を引く。

 

 「知らない」「わからない」ということには独特の価値がある。
 たとえば、日本画の画家たちは、西洋の透視図法(遠近法)を知って以来、「透視図法的に描けない」という能力をなくした、というのは画家の山口晃の重要な指摘である。
 透視図法は写真にとったようなかたちに描けるので、そのかたちこそが「ものの真実のすがた」だと思いこみがちだが、じつは人間の目にうつるものの像は、カメラのとらえる像とはかなり異なる。たとえば人間の目は、視野の全域にピントをあわせておくことができない。だから、いま注目している小さな範囲以外は、視野という構図のなかにあっても、ぼんやりとかすんでいるのだ。ピントをべつのところにあわせると、さきほどとは構図そのものがちがってきてしまう。
 しかしいったん透視図法が「正しい見えかた」だと信じてしまうと、それ以外のかたちでものの姿をうつしとることができなくなる。山口晃はこのことを「自転車にのれるようになると、『自転車にのれない』ということができなくなる(自転車にのれない能力をうしなう)」と言っている。pp.88-89


いったんわかってしまうと、わからなかったころには戻れなくなる。わからなかったころがわからなくなってしまう。こども時代の感覚的な能力はもう、どうやっても取り戻せない。それと似ている。わからないまま過ごす時間は、思いのほか貴重な時間なのだ。

詩を読むにあたって渡邊十絲子は、「解釈」を忘れてみてはどうかと提案している。そんなにわかろうとしなくていい。「もっと素朴に一字一句のありさまをじっとながめて、気にいったところをくりかえし読めばいいと思う(p.12)」と。これはまさにサヴァリーズが自閉症者とともに見出した、「感じる読書」にも通じる態度だと思う。

 

話題が飛ぶようだけど、タモリのデタラメな外国語も「解釈」を忘れるひとつのあり方ではないか。




ドイツ語の感じ、ロシア語の感じ、スペイン語の感じ……。ぜんぶ「感じ」でしかなく、意味内容はほとんどない。ことば以前の、音の聞こえ方を披露している。おそらくこれは外国語だからできることであって、母国語で意味をとっぱらって「感じ」だけを抜き出すことはむずかしいんじゃないかな。わかっちゃってるから。

タモリ倶楽部の空耳アワーも「感じ」が主体だ。日本語のように聞こえる外国語の歌詞を投稿してもらうコーナー。外国語を日本語として感覚する。じっさいにはそんなこと言っていないのに、そう言っているように聞こえる。これもまた感覚の証言。


 詩を読んでいてうれしいことのひとつは、その詩を読むことではじめて知ったような感情や知覚の微妙なありようを、あとになって実際に体験しなおすことがある、ということである。
 つまり詩は、わたしがまだ知っていない「わたしの感じ方」をつくるきっかけになっている。

『今を生きるための現代詩』pp.199-200




たとえば、マイケル・ジャクソン「Smooth Criminal」のイントロが「パン、茶、宿直」と聞こえるなんて、空耳アワーで指摘されるまで知らなかった。おおげさにいえば、あたらしい感じ方、あたらしい声を獲得したような気分になる。わたしにとって空耳を楽しむ感覚は、詩を読んでハッとする感覚とかなりちかい。

こんなところに、こんなことばが眠っていたのか。みたいな。まったくべつの、しかし言われてみれば確かに聞こえる声が見出される。誰が言ったか知らないが……。

空耳アワーはテレビ的にわかりやすくお膳立てされている。対して、詩は自分の五感を澄まさなくては聞こえない。そのちがいでしかないと思う。根本の考え方は隣接している。空耳独特のVTRは、渡邊十絲子のいう「あとになって実際に体験しなおすこと」にひとしい。詩を読むこと(ないし、書くこと)で得られる個人的な統合感覚は、空耳の奇妙な映像体験にちかいといっても過言ではない。 

そして何より、空耳アワーの投稿はすべて、ただの聞きまちがいである。ここが重要だと思う。一般的にはまちがいでも、投稿者にとってはそう聞こえるのだ。ふつうに考えればありえないんだけど、わたしはどうしてもこう感じてしまう。そんな「ありえない」感受性がときに、謎の共感を得る。といった部分が空耳と詩的思考の共通点ではなかろうか。


以上の寄り道は、前に書いたパターンの話とつながる。

 

研究者のティム・ラングデルは、ニューロティピカルが「対人関係のパターン」を見るのを得意とするのに対し、自閉症者は「純粋なパターン」を得意とすることを明らかにした。「純粋なパターン」は、一見したところ隠れている。自閉症の少年が装飾付きの枕をラビオリと呼んだことが示す通りである。それは社会的に割り当てられ、受け入れられているものの意味づけとは一致しない。それゆえ、想像力を生み出すもととなる。

『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』p.113


タモリの披露するデタラメな外国語は、あきらかに「対人関係のパターン」を模してはいない。意味を漂白し、音だけを抽出した「純粋なパターン」を模している(日本語だとたぶん「対人関係のパターン」から逃れられない)。空耳アワーも同様に「純粋なパターン」のありようではないか。

「純粋なパターン」とは、かんたんにいうと「わからない」を経由したものの見方じゃないかな。解釈を忘れた見方。外国人や、こどものような周縁的な視座ともいえる。あるいは、孤独を経由したまなざし。


 人はだれでも孤独であり、また孤独であるべきだ。けれども人はついだれかのこころの中に自分の存在を押しこみたがる。相手にとって自分というものが「意味」をもつと信じたいのだ。名前のある、ほかのだれとも異なる、識別してもらえる一個人でありたいのだ。
 そう思うとき人は、人と通じる回路としてのことばをもたなければならない。だれにとってもぶれのない意味内容をもち、言った人と聞いた人が過不足なく感情や価値観を共有できるような、最大公約数のようなことばを。
 しかし、だれにでも通じることばは、深みというものをもたない。「通じる」度合いが高ければ高いほど、そのことばは記号化し、符牒のようなものになっていく。
 詩のことばは、そうしたことばの対極にある、孤独のためのことばだ。安易に通じてしまってはいけない。詩のことばは、母語でありつつ異国的なことばである。詩が難解であるとしたら、それは必然なのだ。

『今を生きるための現代詩』pp.149-150


これもまた、「対人関係のパターン」と「純粋なパターン」について語っているように読める。詩のことばは対人関係から外れた「純粋なパターン」の内にある、と。

こんなふうに『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』と『今を生きるための現代詩』を突き合わせてみると、よく似た考え方が随所に見られて興味深い。自閉症とは何か、文学(とくに詩)とは何かを並行的に考えるヒントになる。タモリの話は余計だったかもしれない。いや、「タモリとは何か」も重要な問いだろう。たぶん。



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