スキップしてメイン コンテンツに移動

日記833



ねこ。わたしがしゃがむと、駆け寄ってくる。「ヒトがしゃがむ→なんかしてくれる!」と条件づけられているのだろう。しょうがないから、めちゃくちゃ撫でた。動物の単純な身体表現が、なぜこんなにうれしいのだろう。自分も単細胞になれるせいか。赤ちゃんや幼児に接するときにも似た感覚がある。お互いこの上なく単純に、好意を表現しあえる。

 

8月13日(金)

墓参りへ。親戚の男の子と、2年ぶりに会った。中学3年生。まいにち6時間、受験勉強をする日々だという。彼は物心つくかつかないかの頃からずっと、わたしに好意を向けてくれた。夏休みは、まいとし会う日を指折り数えて楽しみにしていたという。でもすっかり成長して、単純に好意を表現することもなくなった。

話しかけると恥ずかしそうに笑う。2年前まで、そんなことはなかったのに。声変わりして、口数も減った。葛藤が芽生えている。たぶん、感情と身体の葛藤だろう。感情に対して、身体の表現が抑制的になった。こども時代は、感情が身体にそのままあらわれていた。ああ思春期。そんなあなたのようすに、おじさんちょっとだけ寂しさをおぼえました。

会って開口一番、親戚のおじさん定番のセリフ「大きくなったね~」が炸裂した。とても自然に。あのときのわたしはパーフェクトな親戚のおじさんだった。雷に打たれたように、親戚のおじさんとしての自覚が全身を駆けめぐった。欠けていた最後のピースがぴったりハマった感じだ。やっと完全体に進化できた。

墓へ向かう途中、中学生の彼から「国語が苦手で、語彙力がないんだ。本が読めなくて」と相談を受けた。マンガは読むらしいので「マンガでも国語力・語彙力はつくよ」と自信をもってこたえる。おすすめを問われ、『DEATH NOTE』や『名探偵コナン』などを挙げた。『DEATH NOTE』は集中して読むとなんだか頭がよくなったような気がしてくるからいいよ。疲れたら、『グラップラー刃牙』ね。こっちは肉体的に強くなったような気になれる。それで脳味噌と筋肉のバランスがとれる。人生って、バランスが命だから。みたいな謎のアドバイスをして、笑ってた。

話しているうちに恥ずかしそうな葛藤がすこしずつ溶けていくようで、うれしかった。歩きながら飼いイヌの写真を見せてくれて、イヌの可愛さについて力説された。そうだよね、イヌは可愛い。そこで思い出した、クライブ・ウィン『イヌは愛である 「最良の友」の科学』(早川書房)の話をする。読んでないんだけど、こんな本があって、タイトルがいいよね。イヌは愛である。すごい、イヌって愛なんだ。しらんけど、そうらしいよ!


墓参りはさらっと終わり、即解散。コロナ以前は親戚一同で会食をしていたけれど、いまはすこしでも会えればそれでいい。マインドが大きく変化した。

 


 

わたしが「知的だなー」と思う人はかならず、感情的な繊細さも持ち合わせている。感情と知性は切り離せないものだ。対立はしない。自分自身、じっと考え込んでしまうとき、強い感情に思考がドライヴされている。

では、感情とはなんだろう。過去記事でもアレコレ考えてきたけれど、ごく大雑把にいえば、バラバラなものを統合しようとするときに生じる何かかなーとさいきんは思う。離れ離れなひとつひとつを、なんとかつなげようとするとき、エモくなる。感情的な繊細さは、まず差異への鋭敏さからくる。

差をとる。そして、差を埋めようともがく。埋まらないとわかっていても。そこに知性と感情の同時的な運動をわたしは見て取る。



眠りについて。人はひとりで眠るのではないと思う。安心して意識を失える、世界への基本的な信頼感がないと深く眠ることはできない。その信頼感は、ひとりで育むものではない。

いくつになっても人は、こども時代の自分を寝かしつけるように眠るのかもしれない。ある人と話をしながら、そんなことを思った。大人の自分が、こどもの自分を安心させて眠りに就く。「もう大丈夫」と。こどもの自分がおびえていると、うまく眠れない。

寝顔はみんな、こどもっぽい。



コメント