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日記834


ここ数日は夏の小休止。すこしさむいくらい。
蝉はずっと鳴いてる。また暑くなるそう。



前回の記事で、感情とは「バラバラなものを統合しようとするときに生じる何か」と書いた。大雑把な話。過去に「接着」とか「接地」とか書いていた、その延長線上にある発想だった。よくわかんないな……。もうちょっと具体的にしないと。

まずもって感情は肉体的なものだと思う。身体感覚と切り離せない。よく対置される理性はそれでいえば、体からすこし距離をおく態度。ナレーションのようなもの。ヒトは第一に肉体をもつ、感情的な生き物であるとわたしは見ている。そこに、自分の状況を俯瞰するナレーターもひょっこりついてくる。ひょっこり。そのせめぎあいがことばになる。

「統合しようとする」という発想の背景には、サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)から得た見解があった。これで、この本の話はさいごとしよう。


 文学批評家のデイヴィッド・マイアルは「感情と記述式回答の構造化」という論文の中で「感情の統合力」ということを書いている。マイアルによれば、文学は「誘発、越境、修正」を引き起こすきっかけになるという。誘発とは、感情に満ちた個人的経験を単純に思い起こすこと。越境は、そうした記憶とテキスト内の出来事とが一時的につながること。修正は、最初の感情を考えなおすことである。マイアルにとり、文学は「感情を呼び覚まし、その意味合いを修正するための効果的な手段」となるものである。pp.279-280


ありがちな類比だけど、本を読むことは旅に似ている。文学だけにかぎらない。あるいは見知らぬ他人のブログ記事にふれることも、ちょっとした「越境」かもしれない。じっさいの旅もまた、「誘発、越境、修正」を引き起こす。べつの土地に身を寄せる経験から、そこにあるべつの記憶とつながり、帰ったのちの日常がすこし変化する。読書は記憶の旅であり、現実の旅を深めてもくれる。

べつべつのものをつなげようとする感覚。たいていそこには飛躍があって、よく考えるとつながらない。わたしたちはいかんともしがたくバラバラだ。しかし「つなげようとする」。つい、つなげようとしてしまう。それが感情の働きだと思う。そもそも旅は飛躍そのもの。

  

 

わたしのイメージでは、自閉症者は自分ひとりの体のなかにバラバラな感覚を抱えており、それを統合しようと絶えずもがいている。話がつながるかわからないけれど、『嗅ぐ文学~』に自閉症者は「情緒的共感が過多」なのではないか、という仮説があって非常に刺激的な転回だと思った。

まず共感は、認知的共感・運動的共感・情緒的共感の3つに分けられるという。


認知的共感とは他者の精神状態について抽象的な命題を立てる能力であり、運動的共感とは適切な身振りをする能力、そして情緒的共感とは、神経科学者のシモーネ・シャマイ=ツーリーが「観察した他者の体験に対する情動的反応を体験する能力」と定義したものである。p.167

そして、サヴァリーズ氏は次のように語る。
 
自閉症者は、認知的共感と運動的共感には苦労するが、情緒的に共感することは難しくない。この結果は、アスペルガー症候群の被験者にとり認知的共感は困難だが「情緒的共感では対照群と差がない」とする二〇〇八年の研究でも確かめられた。翌年にはスコットランドの研究者アダム・スミスがさらに突っ込んだ研究を行い、科学的な常識をひっくり返すような「共感不均衡仮説」を提唱した。自閉症者は「情緒的共感が過多」なのであり、そのせいで「共感の過覚醒に陥りやすい」というのである。この過覚醒の影響で認知的、運動的共感がますます困難になり、結果として自閉症者は実際よりも共感的でなく見えてしまう。「自閉症者は他者に対する気持ちを欠いている」と言うのと、「自閉症者は感情状態を言葉で表現することと、運動的に期待されている反応をすることに困難を抱えている」と言うのでは、大きく異なるのである。p.168


コミュニケーションは基本的に、適度な分離と適度な連携によって図られる。自閉症者はおそらく、ある面では分離が過剰であったり、ある面では連携が過剰であったりするのだろう。体の条件から、そうなっている。

一個の体もまた、適度な分離と適度な連携によって動く。たとえば両足が同時に前へ出てしまうと、うまく歩けない(過剰な連携)。かといって右足と左足がべつの生き物みたいにバラバラでも歩けない(過剰な分離)。歩くとき、足は適度にバラバラで、適度に連携している。その連続によってテンポのよい歩行が可能になる。

足だけではない。内臓もふくめ全身がそのような連続体としてある。わたしたちの体は、それぞれの部分がすこしずつ時差をともなって順次うごめいている。時差をつける隙間がないと動けない。自閉症者はおそらく、体の協応的な時差を統合することに、人一倍エネルギーを要しているのではないか。不均衡でバラバラな認知を、絶えずつなげようとしている。

「時差」の概念は拡大すれば、旅と読書にもつうじるかな……。



『嗅ぐ文学~』を読んで感じたことを、総論的にすこし書く。みずからの偏見を穿つ覚悟がないかぎり、「多様性」は語れない。定型発達者と自閉症者との相互理解は、必然的にバイアス同士のせめぎあいになる。認知傾向のちがいなのだから、そうならざるを得ない。

しかしこれは、他者と接するときに日々わたしたちが行っていることでもあるんだろう。仰々しく書いたけど、コミュニケーションってそういうもんじゃないすか。相手によってチューニングを変える。顔を使い分けて、偏見と偏見を適当にフィッティングさせる。あるいは立場を交換して、考えを渡し合う。

ただ、定型発達者と自閉症者とではバイアス間のひらきがおおきい。根本をみなおす必要がある。既製のことばではなく、それぞれにちがうテーラーメイドのことばを互いに受けとること。予見を崩して、わからない同士でわかりあうこと。そこが難儀な部分であり、文学的な豊穣さをもたらす部分でもある。


 私は文学と自閉症についての旧来の知見が誤っていることを証明するために、この固い壁にひびを、それも決定的な割れ目を入れたいと考えていた。私の息子にとって、旧来の考え方は役立たずであったばかりか有害でさえあった。p.248

 

サヴァリーズ氏の(私怨含みの)情熱がもっともよくあらわれている一節だと思う。アツい。この記述に『嗅ぐ文学~』の魅力と、偏見が集約されている。旧来の偏見に対する、カウンターの偏見。「偏見=悪」ではなく、誰にでも偏見があるのは言うまでもない前提である。どんな人も偏見から自由ではない。

わたしたちはどこまでも、儚いひとりだ。神のように世界を一望することはかなわない。そうである以上、偏りは必然的に生じる。でも油断すると、神のように世界を一望しているつもりになってしまう。滑稽なほど儚い、ひとりの体を忘れずにおこう。狭い狭い思い上がりに飲み込まれる前に。

しかし、やはり、ひとりだと儚すぎて心もとない。だからヒトは本を読んだり、誰かと話したり、旅に出たりしてバラバラな世界の断片をかき集める。みんなを知ろうとする。多少は思い上がる。その集積が個人の記憶とことばをかたちづくる。見て聞いて触れたあらゆる時を感情がつらぬき、束ねる。

 

 本を通じて、いまここにないものをありありと想像しようと試みる。たとえばスーダンの内戦を、中国の猛吹雪を、トンガの珊瑚礁の死滅を。あるいは、レンズを磨くスピノザを、周期表を発見したばかりのメンデレーエフを、アフリカ大陸から流木に乗って南米にむかう太古のサルたちを。こうしている間にも、南極大陸では巨大な氷床が溶けている。太陽系の果てでは、どうやら地球大の未知の惑星が見つかった。ヒトの歴史=世界はいったいあと何年続くのだろう。そんな耐えがたい不安に抗して、きみは果敢に本を読む。
 ともだちよ。ぼくもそれに倣うことにしよう。

管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(左右社)より。まったくバラバラな出来事の羅列が本を読む行為に収斂していく。たとえばこういう書きぶりに、わたしは感情のこもった筆の走りを見て取る。バラバラなものを統合しようとするときに生じる、何か。自分にとって読み書きはまず、時間の断片を撚り合わせる、感情的な営みとしてある。それはすなわち、あなたとわたしをつなぐ営みでもある。管さんの文章を書き写しながら、そう思った。


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