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日記836


 

 「対話」の前提。

 

 では何を話題にすべきか。それぞれの「主観」である。それが傍目にはどれほどいびつなものに見えようとも、対話の出発点は常に「主観」であるべきなのだ。その意味で対話とは、主観と主観の交換でもある。たとえ相手の“主観的”な意見に同意できなくとも、私が“主観的”に同意していないことを穏やかに伝えつつ、「共感」可能なポイントを探ること。これも対話の一部となる。たとえば「親を殺したい」という訴えには同意できないが、そう思うに至った過程については共感できる、というように。p.277

 

斎藤環・與那覇潤の対談本『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)、斎藤さんの「あとがき」より。こうしたコミュニケーションのあり方が理想的だと、わたしはかねてより感じている。これを読んだとき、タレントの伊集院光さんが朝のワイドショーを降板した理由を思い出した。R25のインタビュー記事。

 

世の中を妬んで、最終的に殺人を犯す人のニュースがあったとして、恵まれていない人が、恵まれた人を妬むことに関しては肯定すべきだろうと思ってたんです。『そういうときもある』と。でも人殺しだけは絶対否定しなきゃならない。ただそこでコメンテーター陣が『自分の努力が足りないのに、なんで人を妬むんだ』っていう空気になったときに『俺はわかります』って言えなかったんです。『人を妬むところまではわかる』って。今現在、人を妬んでいる視聴者に『妬んで生まれた負のエネルギーみたいなものを、みんななんとか今日のところはオナニーをして寝ることで忘れて……やり過ごしてるから大丈夫だよ』って言わなきゃならないのに、言えない自分を“何それ”って思っちゃう。もし俺が成功者を妬んでいてその番組を観ている立場だったら、『今のこの妬みは、俺は殺人犯としか共有できないのか』という話になるじゃないですか。でも違う。妬むし僻むしヒドいことを考えるけど、やらない。人間だから。やっても何も変わらないから。やらないで済ます方法はオナニーだと知っているのに、それを伝えられないくせに出るなと思ったんです。

 

2008年の発言。事あるごとに思い出す。さいきんも、小田急線でかなしい事件があった。しかし伊集院さんの語るような細やかな共感性は、ますます発露しづらい雰囲気になっている。たいていの人は、さまざまなやりきれない思いを抱えながらも適当に帳尻を合わせたふりをしてなんとかやっている。そのなんともいえない「なんとか」を、押し込めるのではなく、繊細に受容できる社会であればとわたしは願う。帳尻なんか合わないほうがあたりまえなのだ。ズレた主観でいい。主観しかない。

なぜこのような語り口に焦がれるのか。余した感情をすくう、複雑にひだをなすことばを、誰よりもわたし自身が欲しているせいだろう。いつもいつも、「言えない」という思いを抱えながら生きている。そのせいか、交友関係もほとんどおおきな声では言えない部分でつながっている。いや、これはごく一般的なことかもしれない。誰にでもなんでも話せるのなら、わざわざ「友」という立場を設ける必要はないのだから。ちいさな打ち明け話から成り立つ関係を「友人」と呼ぶにちがいない。


『心を病んだらいけないの?』のさいごに、読書案内がある。そこで斎藤さんが神田橋條治の『技を育む』(中山書店)をとりあげていて、こんな一文にちょっと笑ってしまった。

 

「邪気」とか「Oリングテスト」とかのオカルト風味は話半分に聴くにしても、本書には良き対話のヒントがいくつもちりばめられている。

 

そうそう……。神田橋條治の洞見はものすごい。それは素人のわたしでもわかる。しかし、しょうじき戸惑ってしまう部分もある。それもまた、素人のわたしでもわかる。が、その「オカルト風味」のことばづかいにも、神田橋條治の主観的には治療に通じる何かが秘められているのだろう。「話半分」ではなく、まじめに考えてみてもおもしろいかもしれない。オカルトを鵜呑みにするんじゃなくて、なんかこう……人文的に。

すぐに思いつくのは、視点と人称の問題。人間をとらえる際の画角がちがうのかもしれない。外山滋比古のいう「第四人称」のようなものとして、オカルトが導入されるのではないか。当事者ではなく、その場から外れたアウトサイダーの視点。病の原因を、狭いところに還元しない視点というか。「わたしが~」でも「あなたが~」でもなく、誰でもない「邪気が~」といえば語りやすいかなーみたいな。まあ、よくわからん。

 

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