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日記837


 

終末期医療に限らず、〈小さな願い〉は人生のかけがえない価値である。日々の〈小さな願い〉の積み重ねが、その人自身を形作る。

村上靖彦『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』(中公新書、p.61)より。ここ数年、医療・福祉関系の本をよく読む。そこから受け取れる内容の多くは、特殊なものではない。ごくふつうの人々の営み。その根幹には何があるのか。そういう話だと思う。わたしたちは〈小さな願い〉をすこしずつ受容し合いながら生きている。その裏には、〈小さな諦め〉もあるのだろう。

 

こんなエピソードが印象的だった。病院ではせん妄で拘束を余儀なくされていた患者さんが、家に帰るとすっかりよくなったという。藤田愛『「家に帰りたい」「家で最期まで」をかなえる』(医学書院)からの又引。


 念願の自宅。安らぎが戻る。
 〔入院中は〕夜になるとせん妄が出て、こちらの話しが全く理解もできないと看護師を困らせていた。しかし、家に帰るとぐっすり眠れ、せん妄も一度も起きないで過ごせた。食欲がまし、むしろ日ごとに元気になった。妻も調理に予想外の忙しさですと笑う。
 入院中のせん妄や不眠のことを覚えていらっしゃいますかと尋ねてみた。驚くほど覚えていて一気に語り始めた。「病院は先方の都合で管理される。聞いてほしいことがある。伝えたいことがある。してほしいことがある。でも声は届かず、一方的な指示を聞き、されるままでしかない。出せない気持ちが満たされなさがどんどん溜まる。それが夜になると不安に変わり、どんどん大きくなって、奇抜な思考に襲われる。自分がおかしくなってゆくのが分かり、もっと怖くなるけれど、どうしても止められなかった」

 

とくに病者ではなくとも、人間は日頃「出せない気持ちが満たされなさがどんどん溜まる」とおかしくなってゆく。ふつうのことだ。声が届く、聞いてくれる、ちゃんと伝わる、その安心感ひとつあればいい。そんな居場所があるといい。〈小さな願い〉をないがしろにしてはいけない。

 

 自分の願いを実現化することと、願いを表現できる場を持つことはセットになっている。願いは安心が得られるところで発現する。そこで、安心を確保できる場所が必要だ。落ち着ける場所をつくることは、ケアの第一歩となる。居場所はその人の自由と深く関わる部分だからである。『ケアとは何か』p.97

自分の部屋には、きっと自分の願いが詰まっている。過去の堆積。身近すぎてふだんは気にも留めないけれど、この観点からあらためて見回すと「そうか……」としみじみする。拡大解釈すれば、これもまた〈小さな願い〉を拾うことのうちだろう。ないがしろにしているものがたくさんある。使ってない楽器とか!

ブログはいつも自分の部屋で書く。セルフケアの一貫でもある。願いの発現。ネット上に数多ある個人ブログは、ちょっと変なにおいがする他人の部屋だと思う。ひとんちのにおい。

 

『ケアとは何か』で語られる「ケアの核心」は個人的に刺さるものだった。

 

 「なんでこの子死ななきゃいけないんだろう?」という問いには答えがない。その問いによって何かが起きるわけではない「純粋な行為」である。だが確かなことは、誰かが聞き届けることで、この問いが行為になったということだ。そして、こうした重い問いかけは語る相手を選ぶ。問いを発することも難しい上に、言葉を投げかけても受け止めてくれる、信頼に足る宛先が必要になる。その宛先になれるよう、「ただ居る」というのが、さまざまな技術を削ぎ落とした後になおも残るケアの核心なのかもしれない。p.188

 

死ぬことについての問いは、わたし自身もえんえん抱きつづけている。自他を問わず、なんで死ななきゃいけないんだろう。あるいは逆に、なんで生きているのだろう。まいにち感じるけれど、出せない気持ちだ。こんなこと、他人に話してもしかたがない。

なんとなく「ケア」と呼ばれる営みに親近感をおぼえるのは、長いこと答えのない問いに拘泥しているせいかもしれない。圧倒的な「わからない」を前にして、「ただ居る」こと。わからないまま。そうするほかない気がする。じっと、こらえて。どこにもいかないで。

 


8月27日(金)

母方の祖父が亡くなった。近々、お葬式がある。だいぶ前に買った黒のスーツを引っ張り出して着てみたら、きつくてピチピチだった。成長したらしい。買いなおさないといけない。しかし、孫の出席は検討中とのこと。ちいさくやるので来ても来なくてもどっちでもいいのだとか。「あまり集まるのもなんだなー」と喪主である母の兄は話していた。わたしは出席しないことに決めた。あとあと個人的にお線香をあげに行くことにする。

まちなか、うしろを歩いていた女性ふたりが「どうしよう間に合わない!最悪~!ブラックリストに載る~!」と大声で狼狽していた。急げば間に合う時間ではなく、すでに絶望的な時間だったらしい。なんだか知らんけど、ふたりに幸あれ!と思った。

 

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