ヒトの安心感はきっと、「通じている」という感覚からくる。通じている。そう信じられる。それは対人関係にかぎらない。対動物でも、ぬいぐるみでも、一遍の詩でも、数式でも、絵画でも、神でも、なんでもいい。自分と世界をつなぐ筋道が何かひとつでもあれば、安心できる。シンプルに、それだけだと思う。不安は逆に、不通から始まる。
もしかしたらこんなことは、あたりまえの話なんかもしれない。うーん。しかし、ようやくわかった気がする。論理ではなく、原理的な感覚として体でわかりはじめた。マイ・レボリューション。
「車輪の再発明」についてよく思う。「誰かがすでに生み出した何かを自分で生み出そうとして時間を無駄にすること」という意味の慣用句。それでいえば、わたしの考えていることなんかすべて「時間の無駄」といっても過言ではない。なんでもかんでも、やりなおしている自覚がある。
たしかに、車輪をふたたび発明しても詮無い。でも、車輪が発明されたそのときの感動は何度でも繰り返していいんじゃないか。「車輪やべえ!超便利じゃん!」って。車輪ってやつはほんとうにやばい。車輪に合わせて地面がめっちゃ平らなのもやばい。都市の設計なんかもう「すべては車輪のために!」って感じじゃん。へたすりゃ人間より車輪のほうが我が物顔である。人間が車輪を使っているのか、車輪が人間を使っているのか、もはやわからない。車輪に転がされる日々。
話が逸れた。なんだっけ。そうだ。車輪が発明されたときの感動なら、いくらでも繰り返したい。発明自体は繰り返しても無駄だけど、発明の感動を繰り返すことはけっして無駄ではない。そのためには「わからない」を経由する必要がある。なくす、というか。できるだけ、まっさらな目でもういちど見る。車輪やばい。
「安心」みたいな概念でもおなじだ。よく使うけれど、しょうじきわからない。どういう意味だろう。リセットするように、あらためて「こういうことかなー」と思案してみると、おもしろい。フレッシュでいられる。誰かがすでに考えていても、自分の腑に落ちることは初めてなのだ。ナイーブな感動を擁護したい。
コメント
車輪が発明されたとき、サバイバルダンスは時代遅れのものとされたんでしょうね。「いつまでそんなことやってんだこの原始人ども!」「車輪という最先端のテクノロジーを使いやがれ!」と。たとえば現代なら、電子媒体の発明によって紙の媒体は徐々に廃れるんじゃない?なんて一部で言われるように。しかし、サバイバルダンスはかたちを変えて残ってるんですよね。どんなに技術が発展しようとも、人類はあの頃のサバイバルダンスをやめない。そう思って改めてTRFを聴くと、胸が熱くなりますね。