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日記839

 

8月31日(火)

夏休みの終わりは若い人の自殺が増えるんだという。なんか井上陽水の「傘がない」みたいな書き出しだな……。「都会では自殺する若者が増えている/今朝来た新聞の片隅に書いていた」。わたしは今朝、SNSでこの話題を見かけた。だけども問題はきょうの雨。傘がない。

いや、きょうはどちらかといえば晴れていた。暑い夏の日だった。どんより曇る時間もあった。しかし雨は降らなかった。だから傘がなくても問題はなかった。問題は自殺だった。ふと思い出した、はてな匿名ダイアリーの記事がある。2009年8月9日のもの。陳腐でも「希望」は大事だという話。


今、まさに俺がそうなんだけど、希望が見えないと、もう、「死にたいんだ!」というより「死ぬしか選択肢が無い」って気分になるんだよ。これは体験しないと分かりにくいけど、そのままの意味で、「それしかないから、そうするだけ」みたいな。積極的に死にたいっていうより。(つっても、そういう自殺者タイプもいるとは思う。連れ合いを亡くして突発的に、とか)

自殺しそうな人に「死ぬ気で頑張ればなんとかなる」と言うのが無駄な理由

 

2009年の時点でこれを読んだときは「そんなもんかー」と他人事のように思っていた。しかし、いまはとてもよくわかる。たしかに「体験しないと分かりにくい」。それしかなくなってしまう精神状態というものがある。

これはおそらく、自殺にかぎらない。他殺もそう。犯罪的な行動はだいたいそうかもしれない。「もうだめだ、こうするしかない」と思い込んでしまう。冷静に計画して犯罪を行う人間は少数派だろう。

ほかの選択肢がまったく見えなくなる。もしかすると、恋にも似ているかな……。「この人しかいない」なんて勘違いだけど、そうとしか思えなくなる。人間はめっちゃ勘違いする。その勘違いパワーがポジティブに働くときと、ネガティブに働くときとがある。

絶望は、自分が自分でしかなくなるような感覚だと思う。徹頭徹尾、自分でしかない。圧倒的な孤立感というか。匿名ダイアリーの全文を読むと、そういう感覚がつたわってくる。「希望」っていうのは、「わたしがわたしだけではないと思える感覚」ではないか。

人間ってきほん複数なんよね。複数であることが希望となる。そうでないと、正気を保てない。

精神科医の神田橋條治は、「希望や期待や夢が入り込む余地が減る言葉は使わない。増える言葉をいつも使う」と話す。また、おなじく精神科医の中井久夫は「医者ができる最大の処方は希望である」と書く。このおふたりは文章の上からも希望を処方する態度がにじみ出ている。決めつけない、かぎらない、べつの可能性がある、そういうことをそっと示唆してくれる。

さいきん読んだ村上靖彦『ケアとは何か』(中公新書)には、帚木蓬生のこんなことばが引かれていた。この人も精神科医、兼小説家。「医師が患者に処方できる最大の薬は、その人の人格である」。これは端的に「複数であること」の処方を語っているようにも解釈できる。

「希望」は具体的ではない。可能性の総体。それも、きわめて主観的なものだ。わたしはそんな、具体的ではないものの価値を積極的に見ていきたい。人はいつでも、見えない力が必要だったりしてるから。人間というのは誰でも例外なく、浮ついた存在なのだと思っている。浮ついていないと死んでしまう。

 

明日から9月。そして、関東は雨が降るらしい。

こんな曲を聴いていた。


 

 

 

 

八月の尊さについて
一つ約束をした
過ぎても悲しまない
それだけ

 

 

 

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