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日記840


 

  痴呆老人というものは、なるほど理性や論理の部分では情けなくなるほどに能力を失っているということになろう。現実検討力もない。だが、感情面においては瑞々しいものを残していることが普通である。となると、かれらは家庭内の緊張した雰囲気、ただならぬ不穏な空気を敏感に肌で感じ取ってしまう。pp.64-65

 

春日武彦『病んだ家族、散乱した室内 援助者にとっての不全感と困惑について』(医学書院)より。2001年に出版された本なので、「痴呆」ということばが使用されている。厚生労働省が「痴呆」を「認知症」と改定したのは2004年。

ちなみに「痴呆と認知症はどうちがうの?」と、かつて同居していた祖母から幾度となく聞かれた思い出がある(ほとんど毎日)。祖母以外のお年寄りにも聞かれたことが何度かある。母からも聞かれたことがある。そのたび「おんなじ意味のことばを、かっこよく言い換えたんよね」と幾度となく答えた。「体裁を改めたんよね」と。

引用文と絡めるなら、「認知症」は「痴呆」という呼称の身も蓋もなさを理性的に取り繕った格好だ。服を着せるように。「理性や論理」「現実検討力」とは、わたしなりにいえば「取り繕いパワー」である。「補完する能力」ともいえる。うまく覆いをかける。それによって、円滑なコミュニケーションが可能となる。

認知機能に支障をきたすと、しばしば感情的な瑞々しさがむき出しになる。これは認知症にかぎらない。軽いケースなら、あまり眠れていないときにイライラしがちだったり、部屋にこもりっきりになると鬱々としてきたり、そういう誰しも経験のあるちいさな段階から地続きな認知のありようだ。感情は体の底流でつねにうごめいている。汲めども尽きぬ、地下水脈のように。理性は水道インフラみたいなもので、自他の感情水脈をすこしずつ汲み、目的に合わせて取り扱う技術なのだ。

感情を汲む水道インフラも、やがて老朽化する。わたしが抱くケアのイメージは「インフラ基盤の整っている人が水の流れを汲み、他者のインフラ整備を手伝う」、そんな感じなのよね。それは日常にありふれている行為だと思う。あいさつひとつから、感情の動きは始まっている。

感情はいつまでも瑞々しい。湧水のようなもの。どんどん湧いてきちゃうのは困るけれど、その瑞々しさは感動的でもある……。

「かれらは家庭内の緊張した雰囲気、ただならぬ不穏な空気を敏感に肌で感じ取ってしまう」。これとおなじことは、こどもにも言える。家庭内の空気は立場の弱い者にほどダイレクトに伝わり、陰に陽に影響を及ぼす。あるいは、社会全体にも拡大できるかもしれない。空気が荒むと、立場の弱い末端から病理が発現する。

 


 かつて飛行機が発明される以前に、空気よりも重いものが飛翔することはいかに不可能であるかをきちんと証明してみせた学者がいたそうだが、理屈なんてせいぜいその程度のものでしかない。だから根性で乗り切らなければ駄目だ、と強弁することもひとつの理論であるし、神を信じないから救われないのだと主張することも立派な理論である。理論なんてものはいくつでも並立し得る。そういった意味で、少なくとも心の領域においては、理論とはひとつの解釈というかポリシー程度のものでしかない。それを唯一無二の真実と思い込むのは大間違いである。p.77

 

ひきつづき『病んだ家族、散乱した室内』より。「理屈なんてせいぜいその程度のものでしかない」。まったく同感だ。たいていのことは、なんとでもいえる。正しいも間違いもない。その前提のうえでわたしは、「なんとなくこう思う」という見立てをふだんから書いたりしゃべったりしている。半信半疑主義者です。

たとえば、「1+1=宇宙」と主張する人がいても否定しない。どうして宇宙になるのか、気になる。その人なりの理屈があるはずだ。興味深く耳を傾けよう。きっとおもしろいはず。援助者に必要な心構えのひとつとして、春日さんは「好奇心」を挙げている。知ろうとする構えは、あらゆることの基本だと思う。絶対の答えはない。言い換えると「ぜんぶ動いてる」ということだ。

「1+1=2」と結論づけて、それに固執すると動けなくなる。ある人にとっては宇宙かもしれない。よくわかんないけど、そういう人がいてもいい。おしゃれやん。このくらい造作なく動ける余裕はつねに保っておきたい。

本のなかに、鎖でつながれた老女の事例が出てくる。認知症がすすんで徘徊するようになった母親を管理するため、長男がつないだのだという。母親の介護をする者は、長男しかいなかった。この事例から、「孤独という島ではなんでも起こる」と春日さんは書く。 


 長男は孤独に追いやられていたのである。なるほど勤め先では同僚や顧客と接することがあっただろうし、買い物や用足しにともなって他人と接することもあっただろう。だが家に戻れば、ボケた母親と二人きり。事実上、彼は世間から切り離された状態にあったのである。そうした状況下においては、人は突飛なことや酷たらしいことをいとも簡単に思いつき実行してしまいかねない。一面において合理的であるならば、たとえバランスを欠いた発想であろうとそれを実行してしまいかねない。それは人間における弱さであり悲しさである。p.26

 

胸に留めておきたいことばだと思う。「孤独という島ではなんでも起こる」。わたしの内にも「孤独という島」がある。内心は『北斗の拳』のような、暴力沙汰が日常茶飯事の世界観で生きている。しかし実行はしない。いまのところ、そこまで孤独ではないからだと思う。ひとたび孤独に陥れば、愛と哀しみを背負って悪党を叩きのめす北斗神拳の使い手に変貌するのかもしれない。

冗談はともかく、人間はほんとうにひとりきりだとなにをしでかすかわからない。誰でもそうだろう。人前では隠れている、ただひとりの自分がいる。 

 

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