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日記841


前回のつづき。春日武彦『病んだ家族、散乱した室内 援助者にとっての不全感と困惑について』(医学書院)から。「存在しないことを知っている」という力、について。精神保健福祉センターで自殺予告の電話を受けた新人職員の苦慮を見て、著者はこう語る。


 こういったときの新人職員の気持ちを察してみるに、対応しつつも苦しんでいる最大要因は、「じつはこういった自殺予告の電話には、ちゃんとうまい対処法があるのではないのか。わたしは不勉強にもそんなことは習ったことがないし、マニュアルを見たこともない。だけれどそういったことは本当は常識として流布しているのであり、わたしだけがそれを知らないのではないのか」といった不安に根ざしているようである。現実にはうまい対処法決定版なんてありはしないのだが、そんなものは存在しないということを知らないがために、自分に自信がもてない。言葉に説得力が生じず、歯切れが悪く、うろたえた様子を見抜かれてかえってつけ込まれてしまう。
 この話のポイントは、既存の知識をしっかりと体得していることも大切だが、「そんなものは存在しないということを知っている」こともまた同様に重要だということである。p.104


もしかすると、あらゆる「自信のなさ」の根底には「どっかに正解があるはずだけど、わたしはそれを知らない」という焦心がふくまれているんじゃないか。「死にたい」という人になんと声をかけたらよいのか、唯一の正解はない。知らないのではなく、そもそも答えが存在しない。生きて死ぬ、人生の大枠からしてそのようなものだ。

正解が存在しないことを知る。地に足のついた物腰はここから始まるのだと思う。つまり、「自分が矢面に立つしかない」と覚悟を決めるところから。正解を求める気持ちには、他人任せな面がある。「正解があるはず」は「ほかに適任者がいるはず」と言い換えることもできよう。

じっさい、ほかに適任者はいる。どんな仕事でも、自分より経験や知識が豊富な人はいくらでもいる。正解はないが、自分より正解にちかいものを打ち出せる人たち。いるんだけどもしかし、この日この時この場面に居合わせた人間は自分だった。未熟でも、わたしが腹を括ってやるしかない。

そういう態度がきっと、その場における説得力の源になる。腹の括りようで、声のトーンや立ち居振る舞いから変化する。「わたしがやるしかない」という心持ちは、他者に何かを伝えるための基本的な身構えだと思う。

もちろん、「既存の知識をしっかりと体得していることも大切」なのは言うまでもない。人任せではいけないが、ひとりよがりでもいけない。他者から受け継いだ知識体系を参照しつつ、自分の態度を応用的に打ち出すことができれば理想なんだろう。わかんないなりに、やるだけやる。

結果はどう転ぶかわからない。ときには、寝覚めの悪い思いをすることもある。どれだけ頑張っても、実を結ばない出来事はある。生きてりゃ、そういう日もある。致し方がない。

 

 世の中には葛藤もなければけっして寝覚めの悪さなんか感じない援助者もいるのかもしれない。が、わたしはそのような援助者をうらやましいとは思わない。「寝覚めが悪い」というきわめて主観的な感情が生まれる背後には、じつは「援助者としての矜持と迷い」といった我々の行動原理が集約されており、その感情はけっして相手に感傷的な押しつけを強いることを意味してはいない。「寝覚めが悪い」といった感覚は、援助者の尊大な態度を象徴しているのではあるまい。むしろそうした感覚が重視されなければ、我々の仕事は機械的かつ責任感の希薄なものに堕してしまうのではないのか? p.202

これを読んだとき、個人的な経験を重ねて「ありがたい話だ」と心から思った。冗談混じりにも「こんなこと言ってくれる人は春日武彦だけだよ」と感じた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。そんな世にあって、ここまでバランスよく「智」と「情」のこもったことばには、なかなか出会えない。「智」を軸に「情」を擁護してくれている。その配分がわたしにはちょうどいい。励まされる。

自分は、こういうちょっと鬱屈したスタイルに心をひらく性質らしい。経験をもとに、あーでもないこーでもないと思考を重ねた長い時間の堆積が読みとれる。複雑に入り組んだ心情を万力で圧縮し、最低限の肯定を絞り出した文章だと思う。支えになります。

 


9月4日(土)

マスク観のちがいが気になる。ちまたでは「政治と宗教の話は軽々にしないほうがいい」なんて言われるけれど、これにマスクの話が追加される日もちかい。ノーマスクの他人をあからさまに汚物扱いする人もいれば、写真の落とし物のように「マスクの強要は人権侵害!」という主張もある。やむを得ない事情でマスクがつけられない人もいるだろう。場合によって柔軟に配慮したいところです……。

マスク観のちがいで夫婦が離婚したり、マスク観のちがいでバンドが解散したり、そういう悲劇はすでに起こっているかもしれない。マスク観のちがいで別れたカップルくらいならいそう。

スーパーの鮮魚コーナーに、「NO PAIN NO GAIN」と大きくプリントされた真っ赤なTシャツ姿のおばちゃんがいた。気合入っていた。痛みなくして得るものはない。わたしもそう思う。2割引のサーモンを買う。

『病んだ家族、散乱した室内』を読んでいたせいか、政治の動向を見ながら「自民党ってのもひとつの家だよなー」とぼんやり感じた。お家騒動。外野にはよくわからん独自の内在的論理が「家っぽさ」を物語っている。江戸時代とあんま変わってないのかもしれん。家による統治。むろん、適当な思いつきを書いている。 

買い物の帰りに聴いていた曲。





人生 正解など無いと思っていいぜ
ひでぇ目にあったりするそれも まぁいいぜ

Weeken’ Weeken’ Weeken’ Weeken’ Weeken’

We can We can We can We can We can
I love my ah..

 

心地よく脱力する。きょうは土曜日。

 

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