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日記844


いい余白。


9月16日(木)

春日武彦『無意味とスカシカシパン 詩的現象から精神疾患まで』(青土社)を読んでいた。同著者の『病んだ家族、散乱した室内』(医学書院)で強調されていた「好奇心」の姿がクリアに抉出されている。要するにそれは、「無意味」という広大な領野への好奇心なのだろう。対人援助の仕事は、社会の土俵際で息づく人々と触れ合う。意味の土俵際ともいえる。自分の狭い意味体系/価値体系を揺さぶられる経験の多い仕事だと思う。

 

 世の中は無意味なもので満ちている。当然だろう。意味があるとされるものは少数派で、それらは価値があったり役に立ったり理解可能な事物である。それ以外は、いわば図と地における「地」のような具合に、ひたすら無意味が広がっている。p.9

無意味はけっして悪いものではない。かといって、良いものでもない。わかりやすい価値の外側にある。「わかりやすい価値」なんつーのは少数派で、この世のだいたいのものは役に立つか立たないのかも判然としない。意味不明なのだ。うまく像を結ばない。謎に満ちた余白の広がり。余白がなければ、意味も成り立たない。

そして、人生の大半は余白の時間なのだと思う。夢のようにあやふやな。そんな中にあってヒトは意味の手ごたえを求める。杳と知れない暗闇に意味の灯火を浮かべる。それはさながら映写機が投げる、つかのまのあかり。人々はそのちいさな灯をたいせつに懐きながら生きている。胸の裡で、消えないように。ひとり映画を撮りつづけるように。あるいは、小説の創作でもいい。

「無意味の孕む豊かさや恐ろしさを味わってこそ、わたしたちの日常は輪郭を鮮明にするのだ」と春日氏は書く。「好奇心」とは、無意味の闇に浮かべる意味の灯火だと思う。どんなものにも役柄とシナリオがある。

スカシカシパンなるウニの一種は「形が奇妙なので人の注意をひくが、とくに利用の道はない」のだという。氏はそんな役に立たない珍奇なものを表題に添えて見せる。想像するに、すこし露悪的に微笑みながら「ほらよ」って感じで。積極的に意味を付与するわけではない。ごろっと、ただ置いておく。とりあえず提示する。いや、不可抗力的ついてきてしまう、といったほうが正確か。よくわからんが抵抗できずに意識が拾い上げてしまう。

氏の言う「無意味」は、「受動性」と言い換えることもできると思う。なんか知らんがそうなっている、そうしてしまう、「する」ではなく「される」もの。意志的ではないもの。わたしたちはいつも何かをした気でいるけれど、「する」と「される」はことばで言うほど明瞭に腑分けできるもんではない。

わたしはいまこれを書いているのか、書かされているのか。考えているのか、考えさせられているのか。どちらもある。思うに、「する」は日頃の細かな「される」が集積した結果なのではないか。「される」が飽和すると「する」になる。受動が飽和すると能動に転化する。やられっぱなしってわけにはいかない。

『無意味とスカシカシパン』に、神経症に関するちょっとした見立てがある。

 

 神経症(ノイローゼ)を、自分自身との「いざこざ」と考えることが可能ではないだろうか。たとえば、対人関係や営業成績不振から会社へ行きたくないと思っているサラリーマンがいたとしよう。(中略)そのとき当人の心の中では「行かねばならないと思う自分」と「行きたくない自分」とがいざこざを起こしている。しかも、その「いざこざ」に、普段から感じている不平不満や不安を託すものだから、余計にいざこざは紛糾する。それが結果としてさまざまな症状として発現するのが神経症ということになるだろう。子どもたちの「いざこざ」は、大人の神経症の雛形とも言えよう。
 さらに述べるならば、神経症は「こじれ」やすいのである。神経症はつらいけれども、いつしか神経症を病んでいる状態がアイデンティティーになってしまうことがある。心の病という非日常に逃げ込むことのほうが楽であると感じ、しかも周囲に対するある種の当てつけとしても作用する。pp.91-92


やむにやまれぬ「いざこざ」が、いつしかこじれてアイデンティティーと化す。最初は受動的にそうなってしまった心理状態がすこしずつ能動的な反復に転化する。まるで周囲に復讐するように。

「される」が「する」へと転化していく。人間の行動はほとんどこのようなものと考えても、そう間違ってはいないんじゃないか。不安ってやつはすべて受動的である。ああしたらこうされるかもしれない。いま外出したら雨に降られるかもしれない。「する」前に「される」を想定すると、それが不安の種となる。「される」不安感ばかりを先取りしすぎると葛藤で身動きがとれなくなり、精神を病む。

これはポジティブな方向にも言える。ああしたら喜んでもらえる。もしくは自分が楽しくなれる。ちょっとした受動の予期がヒトの行動をうながす。いずれにせよ、まず「される」。受動的な物腰が最初にあるんじゃないかと感じる。無意識のレベルで。

というか単に突っ立っているだけでも、わたしたちは世界からさまざまなことをされている。音にさらされ、風に吹かれ、雑踏に揉まれ、虫にたかられ、ハトに飛び立たれ、猫に逃げられ、犬に吠えられ、波に流され、鮫に襲われ、宇宙人にさらわれ、体内に金属片を埋め込まれ、記憶を消去され、浜辺に打ち捨てられ、病院に収容され、「ピアノマン」と名付けられ、世界中に報道され、役立たずと罵られて、最低と人に言われて、要領よく演技できず、愛想笑いもつくれない。

適当に思いつくまま挙げたが、こういう羅列はえんえん書ける(ただし、やりつづけるには勇気がいる)。受動的に書けるといってもいい。イメージにさらされるように。書くことはまず、思考にさらされることである。されながらする。しながらされる。読むことも、「される」のか「する」のかイマイチ判然としない面がある。

完全なる受動で「させられている」という感覚でいると何事もつらい。苦行だ。だから、「する」方向へすこしずつ再解釈してゆくのだろう。どんな苦行も、おそらくやりつづければ積極性を帯びてくる。そう考えないと、つらすぎるから。奴隷の鎖自慢みたいなものだ。「される」を「する」に変える合理化は誰もが行っていると思う。

「される」は主体性がおびやかされることで、恐ろしい。されるがまま、手綱を放すような態度は勇気がいる。「する」は自分をとりあえず既知のかたちに落ち着けるための型なのかもしれない。コントロール下に置いたことにしておく。なにもしない、されるがままの体認を仏教的な文脈では「修行」と呼ぶのだろうか。

「する」とは、言ってしまえば誤魔化しなのだと思う。自分にカタをつけるための、必要な誤魔化し。ときどき、すべてにおいて「なにやってんだろ?」と冷め切った虚しさにとらわれる。わたしはそういう虚無感を誤魔化すのが下手だ。私見では春日氏も「誤魔化すのが下手」なタイプではないだろうか。いや、勝手な投影かもしれない。どうだろう。

たとえば「孤独で虚しい」と悩む人へ向けて、氏はこんなふうに助言する。


「孤独で、だから虚しいってあなたは言うけどさ。たくさんの他人と一緒でも虚しいことだって珍しくないんだよ。基本的に人は虚しさに囚われるように出来ていると思うなあ。それに囚われないように、みんなやたらと忙しがったり、生活が充実しているとアピールしたがったり、何かに没頭したり、とにかく自分を誤魔化しているんですよ。虚しいと感じるのは敗北でもなければ異常でもない。まずはそれを肝に銘じながら世間を眺めてみたらどうですか。誰もが虚しさから目を逸らそうと必死になっている姿が見えてきますから。滑稽だよね。それを苦笑しながら肯定できるようになったら、あなたは今の状態から変われると思いますね」pp.192-193

ひとりはぐれた「あなた」を「みんな」のほうへ距離を設けつつ合流させる、巧みな「助言」だと思う。ご自身の感懐も多分にふくまれた「助言」だろう。「滑稽だよね」というのは、図と地における「地」の位置からの眺めだ。余白にたたずんで笑っている。おのれもふくむ「図」としての世間を。

中心の「図」である自分と、周縁の「地」である自分。有意味な自分と、無意味な自分。「する」自分と、「される」自分。両者はどれも相補的であり、「どちらか」では語れない。「苦笑」もまた両義的なしぐさで、ふたつ以上の価値観を並列的に見る感情だと思う。

なんであれ「どちらかに振れない」ってことが精神的な安定性に寄与するのだと、つねづね感じる。両面ある。いったりきたりする。煮え切らない、つまんない話。でも胆力の要る、むずかしい話。


コメント

anna さんのコメント…
スカシカシパンってなんだ?って思ったんで画像検索。
おお~、これ見たことある。子供の時に、長崎の海岸にいったら何かの骨みたいなこれがよく砂浜に落ちてました。
ウニの殻だったんだ。今になって初めて知りました。
nagata_tetsurou さんの投稿…
こどもの頃の記憶は、スカシカシパンのようによくわからないものばかりですね。時を経てわかる。あれ、スカシカシパンって名前なんだ。ウニの殻だったんだ。

知らない人のブログが幼い日の長崎の海岸につながっていた。そういうちょっとした偶然、わけもない偶然に彩られてわたしたちはあるのだと思います。「スカシカシパンってなんだ?」という疑問は、好奇心のたまものですね。それがなければ長崎の海岸まで至らなかった。

よくわかんないものでも、思うに任せて拾ってみる。すべてはそこから始まるのだと思います。なんつって。台風が接近しているようです。お気をつけて。