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日記848


人が一日に徒歩で移動できる距離はかぎられている。交通インフラの発達した現代の感覚からすれば滑稽なほど遅い。しかしそれこそが体のリズムなのだと思う。体は全般的に、じんわりしている。時間のかかる乗り物です。何につけても。

友人と街をふらふら歩いた。10月5日のこと。季節外れの蝉が鳴いていた。橋の上、先に気がついたのは友人だった。わたしはすこし遅れて聞き取る。「蝉が鳴いてる」。欄干には落書きがたくさんあった。つい見てしまう。路上の落書きはだいたい、ラブとヘイトの両極から成る。「好き」と「死ね」が典型。

電車で帰る途次、人類学者のティム・インゴルドが『ラインズ』(左右社)で示している徒歩旅行と輸送のちがいを思い出した。といっても、この本自体は読んでいない。『急に具合が悪くなる』(晶文社)から、同じく人類学者の磯野真穂さんによる説明で知った。かんたんにいうと、目の前の世界と親密に関わりながら進む道行きが徒歩旅行。対して、あいだをすっ飛ばし目的地へ直線的に向かう走行が輸送。

 

 輸送とは、機械的手段を使用するかしないかではなく、徒歩旅行にみられる移動と知覚との親密なつながりの消失によって区別される。輸送される旅人は乗客となり、自分では動かず、場所から場所へと動かされる。その通過のあいだに彼に近づいてくる風景や音や感覚は、彼を運ぶ動きに全く関係がない。

インゴルドの示すふたつのちがいの要点は、目的に対する態度だと思う。目的に縛られた道筋(輸送)か、そうではない道筋(徒歩旅行)か。合目的性を至上とする思考か、逸脱にひらかれた思考か。具体的な移動手段の話ではなく、考え方の話。インゴルドは徒歩移動も輸送になりうるという。以下は磯野さんの解説。


たとえば、Googleマップを見ながら目的地まで移動するときと、空き時間に街をただブラブラと歩く移動には圧倒的な違いがあります。前者の場合、私は出発点と目的地を横断します。移動の途中に私とともに在るはずの街並みは私と親密に交わることもなく後景に退き、私はただ一直線に目的地を目指します。後者の場合、私は街並みの空気や彩りを感じながら、そこを通り抜け、その先に何が在るのだろうという、ちょっとした冒険の気分に胸を高鳴らせながら、私を取り巻く街並みとともにラインを描きます。


目的を逸する「ちょっとした冒険の気分」の裏には、きっと不安もある。好奇心はつねに、不安と隣り合わせのものだ。目的があれば安心できる。着地点がちゃんと見える。基本的に目的はあったほうがいい。ただ、それに縛られると見過ごしてしまうものも多い。

友人と歩きながら、途中で道に迷ってしまった。目的地があると、迷うという事態が発生する。目的がなければ逸脱もない。逸脱はあくまで目的の副産物として生じるのだろう。はじめから無目的な挙動は、できないんじゃないか。スマホを取り出し、マップを確認する。やはり目的地が見えるとすこし安心する。

行き過ぎた道を引き返す途中、たまたま通りすがった図書館に入った。トイレを借りて、ちょっと見学。こういう寄り道は徒歩旅行的なふるまいといえる。『ラーメンのかわ』という絵本を見かけて、すこし笑う。水槽があって、覗くとちいさなナマズがいた。知らない街の図書館は楽しい。地元の人が通う場所だからこそ、その街の雰囲気がよくあらわれている気がする。

友人は地元だったので、迷ってちょっと申し訳なさそうにしていた。一方のわたしはもともと逸脱的な性格で「それもまたよし」という感じだった。迷わないと図書館へ行けなかったし、10月の蝉とも橋の落書きとも出会えなかった。

結局、目的地には向かわず「街をただブラブラと歩く移動」に切り替える。風景とゆっくり親しむ徒歩旅行の日になった。立ち寄った公園の鉄棒で、何年ぶりかに逆上がりをした。前転もした。まわったあと、頭がクラクラした。そして自分の元気さに驚く。こんなに回れたとは。というより、こんなに回りたい気持ちがあったとは。回れてよかった。


 

歩くコースもぐるっとまわって、「ここはさっき通った道!」と気がつく。道と道、風景と風景がつながる瞬間は「ひらめき」に似ている。エウレカ!って感じ。腑に落ちる感覚。なるほど。完全にわかった。そういうことか。知らない土地をぐるぐる歩くと、ひらめきを体感できる。

駅の近くで、犬を連れたおばあさんが立ち話をしていた。ピンクのリボンをつけたかわいい犬。「この子オカマなの」という。オスだけどかわいく着飾っているらしい。着せているのはむろん、人間である。すれちがいざま聞こえた話。

駅ビルの書店で本を買う。いちど買わずに出ようとするも、戻ってやっぱ買う。『ライティングの哲学』(星海社新書)。絵画の展示スペースがあって、ちらっと覗く。地元の人が描いたらしい。異国の風景や、薔薇の油絵。

夕飯はお蕎麦でも、ということで蕎麦屋へ向かうも、休業していた。ランチだけの営業だったみたい。しかしそこでもやはり収穫はある。以下の写真は、蕎麦屋まで行かなければ撮れなかった。聖書のことばらしい。



正しい人はいない。じつは多くの人がそう感じているけれど、これを説得的に言えるのは神さまだけだ。人としては言えない。言いたいけど、言えない。なぜなら、正しい人はいないから。人間の立場として言えるのは逆に、「みんな正しい」ということだけだと思う。わたしはそう思っている。

ということで、ガストに入る。海鮮丼。おいしかった。そのまましばらく話をして、駅まで歩き、改札前で別れる。さいごに握手をする。そのとき感じた握力の差で思い出す。過去にもこうして別れたこと。

堂々と別れたあと、入るべき改札をまちがえていたことが判明し引き返す。お後がよろしいようで。

偶然、翌10月6日もガストに行く用事があった。知り合いに資産運用の話を持ちかけられ、説明を受けた。非常に眠たいお話だった。お金っていうのはずいぶん楽天的にまわるんですね、と思った。皮肉ではなく、素直に。つまり、希望とか期待とか明るい未来の見通しにもとづくものなんだなーと。悲観的にはまわらない。あたりまえのことを再確認した。

かなしい気分のときは無駄な買い物をしちゃいがち、みたいな話も聞くけれど、それも自分を焚きつけるような行動なんじゃないかな。希望のあるほうへ。資本主義は、とても明るいものではないかしら。明るいばかりだと付き合いきれんときもあるけれど。

10月7日、大きめの地震があった。22時41分。震源は千葉県北西部。突き上げるような小刻みな揺れをベースに、ときどき横幅も感じたかな。積ん読の山がいっせいに揺れて焦る。しかし倒れることはなかった(一部もともと倒れていた)。窓枠か何かがパキパキ鳴っていた。ほぼなんともなし。ガスも止まっていなかった。人の声は翻弄されるが、秋の虫は一貫した声で鳴きつづけていた。

 

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