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日記849


気候がいい。秋は音がいい。風も快い。でもすこし暑い。

前の日記で書き忘れたことがある。10月5日、いちごパフェを食べた。甘かった。「パフェはよろこびの表現です」と話す。個人的には、パフェを頼もうなんてそうそう思うものではないから。「水がいちばんおいしい」と信じてはばからないような味気ない人間だから。演出、というと身も蓋もないけれど、ちょっとした演出をたいせつにしたいと思っている。気まぐれにお花を買ってみたり、ふとケーキ屋に寄って帰ったり。日々に色を添える。

自分ひとりなら「水がいちばん」。食も細くていい。欲らしい欲はないかもしれない。そもそも生きていこうって気概があまりない。欲望を賦活する鍵はやはり他者なのだろう。他者としての自分もふくむ。「他者としての自分」は言い換えると、演じる者としての自分。登場人物としての自分。

購買意欲が湧くときは、いつも誰かのことを考えている気がする。あるいは、こうして誰にともなく文字を書きつけるときも。送られたものを送り返すように生活している。

 

この世界は潤沢な贈り物が惜しげもなく散りばめられたところだ。贈り物は、あなたが何もしなくても無償でやってくる――招かれもせずに、あなたの元へ。あなたはただ、目を見開いて注意を払いさえすればいい。それがどこから来るのか私たちは知らない。


ロビン・ウォール・キマラー『植物と叡智の守り人』(築地書館)より。このような考え方を素朴に信じている。というより、実感している。「やってくる」というキーワードは示唆深い。求めてもいないのにやってくる。かたちにすがる命がある。


 

ふと思ったこと。2種類の言語がある。許可を契機に作動する言語と、否定を契機に作動する言語。前者は機械的なもの。後者は人間的なもの。何もできないところから始まる言語と、何でもできるところから始まる言語。ともいえる。

こう書いても、意味不明だろう。自分でもぼんやりしている。言語というより、知性のあり方としたほうがいいか……。生煮えの思いつき。人工知能と精神分析について考えながら思いついたこと。頭の隅に留め置くため、とりあえずメモ。

久しぶりに発泡酒を飲んだら、ひどい腹痛に襲われた。何年か前は、まいにちのように飲んでいたのに。体質(腸内環境?)が変わったのかもしれない。ふたたび飲める体に戻そうとは思えないので、これからは「飲めない人」としての人生を歩むことにする。やはり水がいちばんおいしい。確信が深まった。

それにしても秋の空気は気持ちがいい。


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