スキップしてメイン コンテンツに移動

日記850


休日、よく晴れた玉川。公園から川辺に降りる。犬を連れた人々、しゃぼん玉であそぶ少年、階段にすわるカップル、体操をするおじいさん、川に石を投げる若者、虫を探す親子、ジョギングをする人、寝っ転がるおじさん、杖をつくおばあさん、電動車椅子の青年、笑い転げる女子高生、ふと立ち止まって写真を撮る人、などにまみれて歩いた。この場所には余裕しかない。余した時間が集まる空間。

来るたび、「ここは幸福の巣窟だ」と思う。くさくさした気分だと、「けっ」となるかもしれない。「余裕しかない場所」というのは要するに、役割が決まっていない場所のことだ。こういうことをする場所です!と定められていない(とうぜんながら、いくつかの禁止事項はある)。さまざまな人が一堂に介して、思い思いのことをしている。そうした場所に身を置くと、ほっとする。誰が誰でもいいんだと思える。全員互換的というか。

わたしは「ふと立ち止まって写真を撮る人」だったけれど、そうではなくてもいい。石を投げても、虫を探しても、体操をしても、杖をついても、車椅子を走らせても、笑い転げていてもいい。誰でもよかった。そういうたぐいの安心感があった。わたしはそんなに、わたしではなくてもいい。変な話。でも、安心感とはそのようなものではないかしら。

余裕がないときは、役割に追われている。やることがある。わたしがわたしの役を、しっかり負っていないといけない。もちろん、そこで芽生える責任感や義務感もたいせつ。なんだけど、そればかりだと人は疲弊してしまう。誰でもいい場所に、束の間でも身を委ねることができれば「くさくさした気分」にも陥らないはず……。いや、腐っていてもいい。それもまた相対化されるから。どんな気分でも、誰が誰でもかまわない。

公園が好きだ。都市の中で、いちばん安心できる場所かもしれない。よく「ダメな大人」の典型として、昼間から公園でワンカップ片手にうなだれているおじさんが描かれる。これは裏を返せば、社会の隅に放逐された何者でもない人の居場所は公園くらいしかない、ということなんだろう。公園は目的のいらない、都市のだぶついた空間である。名前を失う、何者でもない時間を引き受けてくれる。「余り」をむやみに埋めてはいけない。



 同時に二つのことを言えないというのは、大きな限界でもあり、また精神の安全保障でもある。世界が同時に無数の言葉で叫び出したら私たちは錯乱するしかない。
 言語の直線性すなわち一次元性は雲のような発想に対して強い規制をかける。言語以前の強烈で名前を持たない感覚を因果律とカテゴリーとによって整理してくれるのが言語表現である。妄想も言語表現であり、その意味では混沌に対する救いではある。p.42

中井久夫『私の日本語雑記』(岩波書店)より。混沌とした感覚に襲われるような状況はつらい。そこでは言語による整理が救いとなる。一方で言語的な規制にがんじがらめでも、またつらいのだと思う。なんでもない、流動的なひとときも必要。人の心理はどこまでも「あいだ」で揺られている。

ことばがなければきっと、体が混沌のなかでオーバーフローしてしまう。そうならないよう、感覚に規制をかける。言語は精神のバランサーとして機能しているのだと思う。前回の日記で「否定を契機に作動する」と書いたのは、つまり感覚にタガを嵌めるようなイメージなんだけど、まだわかりづらいかもしれない。

何も規制されていない状態は、とてつもなくカオティックでやばい。歩く場所も、歩き方さえわからない。人工知能は指示されないと歩けないが、人間はおそらく何らかの規制をかけないと歩けない。こどもの奔放さを思う。体の使い方とは、規制のかけ方なんではないか。やんわりとした拘束。

こうも言える。人工知能はルールが先につくられる。ルールありきの行動様式。許された行動しかできない。人間はルールを後天的に学ぶ。ちいさい頃は時間無制限一本勝負、何でもありのデスマッチをやっているんだけど、成長するにつれてそこにさまざまなルールが追加されていく。凶器は禁止されたり、時間に区切りが入ったり……。

そうした縛りを創造してくれるものが言語であり、他者なのだと思う。過去、とも言えそう。ヒトは他者がいない状態でも、他者にがんじがらめでもつらくなる。言語がなくても、言語にがんじがらめでもつらい。このふたつは並行的だ。 

作文もまた、規制とのせめぎあいのなかで行われる。「なんでも自由に書きましょう」と言われても困ってしまう。最初のうちは何らかの制約を課されたほうが書きやすい。しかし、制約がきつすぎると書けない。慣れるとそのうち塩梅がわかってきて、自分でことばの運動を規制できるようになる。読書によって、規制線のありようを更新していくことも重要だろう。

ともかくヒトは何らかの規制に準じているのだと思う。制限、制約、否定、抑圧といってもいい。逆説的だけど、拘束されることによって動き出す。あきらめから始まる、とも言えるか。人間の感性は、もともと自由すぎる。可能性に溺れた状態で生まれる。そこに有限性(過去)を嵌め込むことで体がドライヴされる。無際限なこの世界を、したたかに限る者としてわたしという他者が召命されている。

「限られている」のではない。限る者とは、わたしのことだ(キリッ)。そうですか。うーん。ほとんど勘とノリで書いているので、なんのこっちゃ?という気もする。引きつづき考えていきたい。


コメント