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日記854


10月24日(日)

目が醒めた瞬間、「ここどこ?」と思った。見知らぬ、天井。梅田のホテルだった。この日は、心斎橋でべつの友人と会う。急な連絡にもかかわらず時間をつくってくれた。ありがたい。パルコの、ブックフェアを開催しているスペースで待ち合わせ。思っていたより濃い選書でおもしろかった。


 出店するのは、「LVDB BOOKS」(東住吉区)、自転車店「タラウマラ」(東淀川区)、僧侶が運営するカフェ「サイノツノ」(大阪府和泉市)、朝7時から営業するレコード店「Tobira Records」の4店。LVDB BOOKSの上林(かんばやし)翼店長が声を掛け、特色ある店がお薦めの本を紹介する。 
心斎橋パルコでブックフェア 個性的な4店による合同展示販売会 - なんば経済新聞 

 

お会いしたのは「サイノツノ」のお兄さん。別れるまでえんえん本にまつわる話をしていた気がする。ふだん使わない語彙を気兼ねなく使う。いつもぼやんと思っていることに肉声が与えられたような、余していたことばが熱を帯びてふくらむここち。

交わしたことばをふりかえると、自分は「あいだ」に立ちたがるクセがあるのだなーと改めて実感する。ブログにはよく書いているけれど、何事も「どちらか」のみでは語れない。そう思っている。まずは矛盾から始めたい。そんなんだから話がすっきりしなかったり、分かりづらかったりするんだろう……。

余談ながら、郡司ペギオ幸夫に惹かれる理由がなんとなくわかった。矛盾を体よく整理しない、不格好なスタイルで愚直に考える。それがおもしろい。郡司氏にかぎらず、わたしは矛盾を起点とする格好悪さに惹かれる。ボタンの掛けちがいを性急になおさず、いちど手を止めてべつの感覚で捉え返すような。

パルコに戻る。しばらく本を眺めて……カレー屋に行ったか、喫茶店に行ったか。記憶の時系列があやふやだ。喫茶店ということにしておこう。平岡珈琲店。コーヒーとドーナツのセットを頼む。おいしい。お店に置いてあった雑誌『SAVVY』を見せてもらう。小欄で「サイノツノ」が紹介されていた。いい笑顔の写真。話すなかで、『リバー・ワールド』(書肆侃侃房)という現代川柳の句集を教えてもらう。川合大祐著。おもしろそう。

昼食。カレー屋のラヴィリンスに向かう。「ヴィ」が気持ち悪くて素敵。掟ポルシェ御用達のお店らしい。開店前に到着して、とりあえず並ぶ。待ちながら、ブレイディみかこの唱える「アナーキック・エンパシー」について教わる。「リバタリアン・パターナリズム」と似た物言い。このふたつの相似点・相違点を検討してみるとおもしろいかもしれない。いつかの「100分で名著」で伊集院光が「理解は偏見を生み、あきらめは分断を生む。必要なのは問いつづけること(大意)」と言っていた。それにもちかいのかも。と、「書くこと」についてすこし話す。

11時半、開店。前かがみのおばあさまが接客してくださる。ねぎたっぷりの淡いカレー。おいしかった。店内奥の雑然とした棚を見ると、なぜかトロフィーの上にワイヤレスマウスがちょこんと置いてあり、ひそかに興奮する。絶妙な何かの掛けちがい。こういう無意識のなすわざにへんな感動をおぼえる。解剖台の上でミシンと蝙蝠傘が不意に出会う、みたいなやつ。

歩いてtoi booksへ。知らない土地の街並みは迷路みたい。どの角を曲がってもわからない。おくやまゆか『コットリコトコ』(小学館)、『ゆめみるけんり vol.5 特集:わたしから始める』、郡司ペギオ幸夫『生きていることの科学 生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書)を買う。ほかにも欲しいものはあったけれど、部屋が悲惨な状態なのであまり買わないように気をつけた。というか旅先だし。

すぐとなりにあるチャイのお店で休憩。甘めのジンジャーを頼む。思えば、土曜日も似たようなものを飲み食いした。カレーからの甘いジンジャー……。座ってなんやかんや話し込む。異様に楽しかった。話したことを極私的に、いくつか整理しておきたい。

 


たしか喫茶店での会話で挙げたと思う、杉山平一の『現代詩入門』(創元社)を帰ってからパラパラめくると、こんな引用が目にとまった。『小出楢重随筆集』(岩波文庫)の「雑感」という小文冒頭。この本も持っていたので、原典から正確に写す。

 

 私は算術という学科が一等嫌だった。如何に考え直しても興味がもてないのだった。先生に叱られても、親父から小言を食っても、落第しかかっても、一向に好きになれなかったのみならず、興味はいよいよ退散する一方であった。
 5+5が10で、先生がやって生徒がやっても、山本がやっても、木村がやっても、10となるのだ。10とならぬ時には落第するのだからつまらない。
 私は5+5を羽左衛門がやると100となったり、延若がやると55となったり、天勝がやると消え失せたりするような事を大いに面白がる性分なのである。

 

無茶をおっしゃる。と思う一方で、わかるような気もする。そうなったら、さぞおもしろいだろう。たぶんチャイをちびちび飲みながらわたしは、これとよく似た「つまらなさ/おもしろさ」の感覚にもとづき話をしていた。

要するに、確実性より博打めいた不確実性のほうがおもしろい。もしくは一般性より個別性にフォーカスが合う。ただ、小出楢重のように小気味よくデタラメなほうへはbetできない。「5+5=10」の共有も重要だ。言うまでもなく、確実がなければ不確実もない。「つまらなさ」も等しくだいじ。

『ビハインド・ザ・カーブ ―地球平面説―』というドキュメンタリーが話題にのぼった。「地球は平らである」と唱える人々を追いかけた作品。いちおうわたしは「丸いんじゃないか」と思っているが、「丸いに決まってる!」と強く主張できるだけの自信はない。地球の丸さについて、そんなに考えたことがないから。

地球平面説はしかし、かなりの確率でじっさいの自然と異なる。自然科学的には不自然。でも、人間的だと思う。小出楢重の算術にも人間味がある。誰がやってもおなじことは、「人間味」から遠ざかる。それは自然にちかい。

ヒトの心は自然法則のようにはいかない。半ば現実的で、半ば幻想的なのだと感じる。半ばホントで、半ばウソ。半ば自然で、半ば不自然。事実ベースの認識と、虚構ベースの認識が誰のなかにも混在する。わたしたちは現実という鵺のような怪物と絶えず交渉しながら生きている。その交渉の仕方はひとりひとりちがう。

「わたしは地球が平らでもいいと思う」と言った。このとき念頭にあったのは、保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』だった。これ好きなんだよね、とも話した。たしか。読書メモを検索すると、2011年の10月に読んでいる。ちょうど読後10周年。

オーストラリアの先住民、アボリジニが語る歴史をめぐって「ギャップ越しのコミュニケーション」はいかにして可能か、みたいな試論が展開されている本。Amazonに載ってる「紹介」がわかりやすいか。

 

「ケネディ大統領がカントリーに来た」。一見「誤った」アボリジニ長老の物語りに直面したとき、試されているのは彼らではなく私たちである。その語りに耳を澄ませば、それが私たちが日常で行う“歴史実践”と本質的に等価であることが浮かび上がる。近代知の権力性を超えて、異なる他者と対等に繋がり合う――困難な問いを、楽しさと喜びに満ちた挑戦として鮮やかに描き出す。

 

うん。わたしはこの本を、コミュニケーション全般に通じる話として読んだ。ごく個人的な例でいえば、父方の祖母と話をすると決まって、亡くなった人が生きていたり生きている人が亡くなっていたりする。つまり、事実とは異なる語りが展開される。

客観的な判定を下せば「誤り」なんだけど、祖母と話をするときの自分は「客観」なんかどうでもいいと思っているふしがある。結局のところ、主観しかない。「祖母と」にかぎらず、誰と話すときもできるかぎりそんな物腰でありたい。『ラディカル・オーラル・ヒストリー』は、まさにこの「客観」という三人称性を問題視している。

 

「あなた」を「かれら」として分析しなければならないとおもいこむ強迫的三人称複数主義。アカデミックな自意識こそがくせものなんじゃないか。

 

あなたがいて、わたしがいる。あとは知らない。いつでも誰とでもそんなふうに話せたら、どんなにいいだろうと思う。でも「世間が~」とか「社会が~」とか「一般的には~」とか、そういう、三人称的なつまらん自意識がいつの間にか入り込んできてしまう。まるで妨害電波のように。

たぶん、わたしの考え方は「社会性」に欠ける。なんでも個別的に見るクセがある。交換価値や使用価値よりも、存在価値に重きを置いている。「いる」ということ。『ラディカル・オーラル・ヒストリー』も自他の存在価値に関連する内容だと思う。あるいは小出楢重の算術も、地球平面説に対する態度も。ついでに郡司ペギオ幸夫も、存在を軸とした「ギャップ越しのコミュニケーション」について語る人ではないかしら。

藤本タツキの漫画『ルックバック』の表現が修正された件についても、この観点から考えていた。でもこれはややこしいのでうまく書けない。やめとく。あとは何を話したか……。

そうだ、投票のこと。態度に差があっておもしろかった(ギャップ越しのコミュニケーション!)。わたしはゆるい。これを書いているきょう、10月31日は衆議院選挙の投票日だった。とぼとぼ投票所へ向かいながら、考えすぎると投票なんかできないなと思った。

ほどほどに考えて、ほどほどに目をつぶる。そういう気持ちで投票した。つまらん社会性もだいじだ。今回は行ったけれど、行かないという選択肢もつねに自分のなかにある。地球が平らでもいいように。5+5が10にならなくてもいいように。ブレは対話の余地だと思う。「あなた」という人称の余地。

 

1泊2日の遠出はだいたいこんな感じでした。


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