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日記855


 ラスタ用語に、「アヤナイ I&I」という表現がある。ラスタマンたちは、「あなたと私 You&I」という代わりに、この「アヤナイ=私と私」を使うという。人はともすれば、「あなたと私」という対峙的な二者関係において、相互理解の美名のもと、相手を説き伏せ、改宗を求め、支配を試み、それに応じなければ、相手とのあいだに垣根を築くものだ。しかし、「アヤナイ」は違う。「相手とのあいだに垣根を作らない。相手を自分のことのように思う」という態度なのだ。p.212
 

松本俊彦『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』(みすず書房)より。すこしだけ、勝手に補足したい。「対峙的な二者関係」のあいだには、それぞれの持ち寄る「通念」が存在するのだと思う。引用文中の「相互理解」をわたしなりに読み替えると、「相互の通念的な理解」なんではなかろうか。つまり「対峙的な二者関係」は、一回的な個と個の二者関係ではない。反復が前提にある。

相手を説き伏せ、改宗を求め、支配を試みるのは群れとしての人間だろう。ひ弱なひとりとひとりなら、わざわざそんな取り越し苦労はしない。お互いがお互いの信じる「ふつう」を要求しだすと諍いになる。お互いの信じる「群れ」と言ってもいい。その基礎には反復がある。過去に繰り返してきたことの集積。

「私と私」は、「ひとりとひとり」とも解釈できる。その上で「相手を自分のことのように思う」。このとき重要なのは、「のように」を忘れないことだ。あくまで比喩的な想像であって、他者はわたしではない。わたしはひとりで、相手もひとりだった。個人的な倫理観としては、絶えずそこに立ち返りたい。言い換えれば、「わかる」と「わからない」の両方を勘案したい。

比喩は越境を可能にしてくれる。それは言語のすばらしい機能である一方、危うい面もある。しかし人間は混同を生き抜いてしまうもので、群れとして互いの領分を侵し侵されながらぐちゃぐちゃ歩むしかないのかもしれない。そんな気もしている。言語は群れの符牒でもある。ひとりであること、一回であること、「わからない」を堅持しつづけることは、とてもむずかしい。


 凶悪な少年犯罪が起こると決まって、ワイドショーのコメンテーターは、これといった根拠もなしに「規範意識のない子どもが増えている。学校でもっと道徳教育をすべきだ」などと主張する。そのたびに私は、おまえらわかってないよ、と思うのだ。なぜ一部の人はコミュニティの規範を軽視し、それを逸脱するのか。その答えはあまりにも明瞭ではないか。それは、その人がコミュニティに対する信頼感を抱けていないからなのだ。コミュニティとは、結局、それまで出会った人たちの集合体、集団である。そして、人は信頼する集団の規範、自分にとって大切な集団の規範だけを尊重し、遵守するものである。(前掲書、pp.74-75)

 

どんな人も結局は、ある限られた狭い集団性に依拠している。「人は信頼する集団の規範、自分にとって大切な集団の規範だけを尊重し、遵守する」という基本的な認識が念頭にあると、物事がいくらか見えやすくなるだろう。自分自身の考えや行動もふくめて。

体はひとつなので「ひとり」を自明視してしまいがちだけれど、人間はまず度し難く「群れ」だと考えたほうがいい。何らかの共同体の成員として、反復的に生きている。「ひとり」なんてもんはあり得るのか、ときどき疑わしくもなる。しかし、やはり、度し難く「ひとり(一回的)」でもあって、この相矛盾する不協和を痛感し、ことばに翻訳する営為を「思考」と呼ぶのかもしれない。わたしにとって書くことは、いちどきりの不協和音を奏でることにほかならない(それにしては似たような話ばかりだな)。

 


 きみの神を隠せ。
 他人を攻撃するのではなく、彼らの神たちを攻撃すべきだ。叩くべきなのは敵の神々だ。しかし当然その前にその神々を見つけだす必要がある。自分たちの本当の神々を、人々は注意深く隠している。

こんな警句を思い出した。『ヴァレリー・セレクション 上』(平凡社ライブラリー)より。太宰治の小説『如是我聞』の冒頭にも引かれている。神を憎んで人を憎まず、みたいな考え方だろうか。「神々」と複数形になっている。俗な理解に落とせば「集団の規範」ともいえるかもしれない。

できるなら、神を見つけたい。いつもそう思う。自分の神も、他人の神も。「ふつう」を知りたい。それぞれの生きる「社会」を知りたい。そんな気持ちにも近い。ことばを操りながらときどき、終わらないかくれんぼに参加しているような感覚がこみ上げる。

あらわすほどに隠れゆく。隠すことで探すように仕向ける、これが文学の話法だとtwitterで誰かがつぶやいていた。「見つけたい」と思う自分は、あまり文学的ではない。いや、隠し方がわからなければ見つけ方もわからないのだから、どちらとも言い得ないのだろう。

もし自分の神を見つけたら、どうしようかしら。きっと誰にも言わない。信じることも疑うこともなく、置いておく。ことばに乗せた刹那、それは偶像に変わる。つまり、限定されてしまう。なにもしないことは、なんでもありうることにひとしい。「なんでもありうる」という状態を保つ。それが神の保存の仕方。わからないけれど、そんな気がする。

神は規範であり、自由の源泉でもある。時間であり、時間の否定でもある。絶対的にわたしであり、絶対的にわたしではない何者か。なにを言っているのかわからないと思うがおれもなにをされたのかわからない。たぶん、なんかそういうやつ。

このごろ、三浦清宏の『運命の謎 小島信夫と私』(水声社)をすこしずつ読んでいる。気まぐれにひらいたり閉じたり。きのう読んで、「すごいなー」と感じたくだりを引きたい。小島信夫が三浦清宏の小説に対して述べたアドバイスの一部。


若いうちは外へ出て行って行動する。何も言わなくても、それさえ書けば何かを主張することになり、それで小説ができる。年をとってくると、だんだん動かなくなってくる。そこから小説がむずかしくなる。いろいろ思いをめぐらし、周囲と対話しなければならない。思ったり、対話をしたりすることが、行動の代わりになる。それは結局は同じことなのだ。そして、見る自分から見られる自分へと変わってゆく。こちらの考えだけで世の中を切ってゆくことができなくなる。若いときには若いというだけで力を持ち、説得力があるものだ。世間に反抗したり、無視したり、背を向けたり、笑ったりできる。年をとるに従って、今まで自分が無視したり反抗したりしたものに自分がなってくると、そうはゆかなくなる。誰もが一度はかならずそういう事態になる。そうなったときにどうするか。それが問題だ。それが作家の成熟というものだ。それで、一時みんな書けなくなる。谷崎潤一郎、志賀直哉、宇野浩二、みなそうだった。と言って小島さんは、自分もあるときまでは、自分を被害者であると思っていたが、そのうち被害者が加害者に変わることを書くようになった。今は被害者も加害者もないと思うところで書いている、と付け加えた。pp.207-208

 

若年から老年にかけての心理的な変容が語られている。多くの人に共通する心の機微ではないだろうか。若いころは被害者意識が先に立つ。年を重ねれば自分が加害者側になる。遅かれ早かれ、立場が反転する。見る自分から見られる自分へと変わってゆく。誰もが一度はかならずそういう事態になる。一方的に突っ切ることはできないと気づく。しらずしらず、勝手にぐるぐるしちゃってる。

「被害者も加害者もない」は「見るも見られるもない」ともいえるだろうか。それは「なんでもありうる」という態度にも近いのかもしれない。神の保存の仕方で書く。主体も客体もなくひたすら踊り明かすような。浮かびくるものがめぐりめぐるだけの、謎めいたかたち。誰に何を言うわけでもない。ひとりであることそのもの。


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