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日記856



他者はわたしではない。でもそれだけでもない。「わたし以上のわたし」と解することも可能かもしれない。超わたし、みたいな。わたしを超えたわたし。つねに超えてくる。そういうものとして出会っているふしも、なきにしもあらず。全員、見事にわたしを超越している。おそろしいほどに。その意味では、みなさん超人です。

ちょっと心配されそうな発想だけど、あながちないとも言い切れない。わたしを超えているという意味において、わたしではない。他方で、わたしを構成する一部でもある。つまり、わたしを超えたわたし。意外としっくりくる。そうか、みんな超人だったのか。どうりで!うん。「どうりで!」と思う。そして「超えてくる」他者との交流から、わたしにも超人性がフィードバックされる。超人的ネットワークのなかで生きてる。なんて元気な世界観だ。


……それはさておき。小堀鷗一郎『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』(みすず書房)を読んでいて、「あとがき」にこんな引用があった。


私は探り出したい、糊づけもせずに
日々の切れはしから成る生きた物語が何によってつなぎとめられているかを


ロシアの詩人、パステルナークの詩だそう。正確には引用の引用、リュドミラ・ウリツカヤ『通訳ダニエル・シュタイン』(新潮社)に引用されているパステルナークの詩。

前回の記事で、神を見つけたいだの「ふつう」を知りたいだの書いていたそれは、こういうことに近い……というか「これやん」と思った。この世のありとあらゆる日々が、何によってつづいているのか。ひいては、わたしの連続性を担保するものとは何か。そんな問い。
 
自分のオブセッションは、「生きた物語」の混乱からきているのだと思う。「連続してる感」の欠如。どこかで断絶が起こった。過去の記憶がほとんどない。いちど、いなくなってしまった。そういう人はいつの世も、どこの国にも、一定数いるのだろう。いや、程度の差はあれど、誰にでも起こりうるのではないか。語ることをやめると、記憶はなくなっていく。いともかんたんに。

と、このあといろいろ書いたんだけど、パソコンとWi-Fiの調子が最悪で自動保存がきいておらず、消えてしまった。公開に失敗してやりなおそうとしたら、ここまでしか保存されていなかった。こっからなんやかんやあってメルヴィルの『白鯨』がどーのこーの書いていた。しかし、どうやって『白鯨』につなげたのかいまとなってはぜんぜんわからない。論理ではなく、ノリで書いているせいだ。

たぶん日々の連続ってこんなもので……(悔しまぎれに話をつなげる)。その刹那には確かにつながっているが、ふりかえるともうない。そのとき書き留めないと永遠にうしなわれてしまうたぐいの、精妙な感覚に基礎づけられている。一瞬のちいさなちいさなひらめきの連続が日々をつなぐ。あれ、なんでこっちに来たんだっけ。どうしてこの人といっしょにいるんだっけ。どうやって生まれたんだっけ……。ほとんどの出来事はあまりに脆い、気まぐれの結果なのだろう。

この人はいったい、なにをつづけているのか。この場所では、なにがつづいているのか。逐一、問いかけてしまう。人々の「つづける心」を支えるものはなにか。それはつまるところ、「物語」とはなにか、「社会」とはなにか、そうした問いにも接続する。古くからある問いにちがいない。だからこそ広がりに満ちており、興味は尽きない。何はともあれ世界はつづく。この限りない不思議のなかで、わたしたちの暮らしは息づく。

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