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日記857



街で見かけたおじさんが「しーらんぴっ」と言って笑っていた。禿げ散らかした、小太りのいいおじさんだった。「いいおじさん」とは、こういう人のことを言うのだろう。「しーらんぴっ」などと口走る精神性を中高年期まで保つことは、至難の業だとわたしは思う。使わないうちに自分のなかからそんな奴はいなくなってしまう。いつの間にか。

たぶんこどものころはわたしも、「しーらんぴっ」に類するような弾みのあることばを使っていた。こどもは体もことばも弾んでいる。おとなになると、体もことばも弾まなくなってしまう。弾力がなくなる。それだけに、「しーらんぴっ」みたいな弾みに触れると、はっとする。「ああ、弾んでいる!」と思った。

もうひとつ。往来で遊ぶこどものひとりが「お前はもう、死んでいる!」と叫んでいた。小学校低学年くらいの、男の子。「ああ、受け継がれている!」と思った。言わずと知れた『北斗の拳』の決めゼリフだ。わたしも小学生のころ使っていた。「天を見よ!見えるはずだ、あの死兆星が!!」も使っていた。「あべし」「ひでぶ」「たわば」なんか、3年前までパスワードとして使いまわしていた。「パスワードっぽいな」と思って。

仕事の帰りに立ち寄った図書館で、大柄な青年が枡野俊明の『怒らない 禅の作法』(河出書房新社)を読んでいた。メモをとりながら熱心に。「それ、近くのブックオフの均一棚にあったよ」と教えてあげたい気持ちを抑えつつ通り過ぎた。他人の読んでいる本を確認するのは下心を透視するようで、あまりいい趣味とはいえないけれど、つい気になってしまう。本はみんな、閉じられている。閉じられたものを、手でまさぐって読む。それはすこしだけ、いやらしい。

あと、書いておきたいことは。今朝、そうだ。自分がよく着るTシャツを、「aikoが着たTシャツだ」と思い込んでいる夢を見た。起きてからそのTシャツを取り出して、ドキドキした。そんなトキメキを着て家を出た。我ながらキモい。「ヒトラーのセーター」という心理学の実験を思い出した。「あなたはヒトラーが着ていたセーターを着てみたいですか」と被験者に質問すると、ほとんどの人は不快感を示すらしい。

「呪い」みたいなもんの影響力はバカにできない。良くも悪くも作用する。これは単なる直感だけど、固有名詞って呪術的なのだと思う。「有名性」と「呪術性」は似ている。とくに有名でなくとも、固有名は呪術性を帯びて伝わる。名をもつ存在であるかぎり、人間は呪術から逃れられない。

身近な人にとって、自分の名前ができるだけよい魔法に変われば、そういう人生を歩めれば御の字かな。ある人にとっては、いやな呪いかもしれない。それはもう、仕方がない。どこかで挽回できるかな。

固有名の呪文は、ひとりにつきひとつとは限らない。人はいろいろな名前をもって生きる。そのほうが人間的なリアリティに則していると思う。呪文は多いほうが精神的な柔軟さを保てる。わたしにも、場所や関係によってさまざまな呼ばれ方がある。仲のいい人は、いろんな名前で呼びたくなる。ひとつじゃ飽き足らない。ちがう角度からもつながりたい。立体的な関係を築きたい、そうした欲求なのだと思う。



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