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日記860


人の人格は、それぞれ劇的に異なっている。私たちは、自分を取り囲む状況を自分で作り上げる。そしてその状況が、さらに私たちという人間を作り上げていく。このようにして私たちを取り囲む状況は、多くの場合、自ずから持続していく。例えば恨みがましく怒りっぽい人は、周囲の人の怒りを引き出すことが多いため、結果的に自分の世界観をより確実なものにしていく。人の長所に注目する人は、ときに相手のいいところを引き出すことができる。しかし、このようにして作られた世界観を変えようとするのは、高層建築の桁を取り替えようとするようなものだ。どんな理屈や議論をもってしても、うまくいくことはそうそうない。唯一効果があるとすれば、それまでに出会ったほかの誰とも違う要素をもつ人とのあいだに関係を築くことだ。それは恋愛を通して起きることもあるし、学校や、職場で起きる場合もある。そしてそれは、良質で密度の高い心理療法でも――特に、自分を苦しめている状況を作っているのは自分だと患者が気づき始めたときには――起こり得る。人はときに、根底から変わることができる。その過程を手助けすることは、簡単ではないが、大きな充実感を与えてくれる。pp.272-273

 

ランドルフ・M・ネシー『なぜ心はこんなに脆いのか 不安や抑うつの進化心理学』(加藤智子 訳、草思社)より。人は良くも悪くも、自分でつくりあげた世界観のなかに生きる。その世界観はどんなものであれ、他者によってつくりあげられた共作でもある。自他の世界解釈は継ぎ目なく混在しており、分離は容易ではない。人間は創作的に生まれつくのだと、わたしは思う。心をつくり、つくられながら生きてゆく。創作に縁がない人はいない。

上記の引用部分に触れて、さいきん読んだ奈倉友里のエッセイ集『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)を思い出した。奈倉さんがロシア語を勉強し始めたころのお話。

 

 そんなふうにして基礎だろうと応用だろうと歌だろうと節操なくロシア語という言語に取り組んで数年が経ったころ、単語を書き連ねすぎて疲れた手を止めたとき、突然思いもよらない恍惚とした感覚に襲われてぼうっとなったことがある。なにが起こったのかと当時の私に訊いても、おそらくまともには答えられなかっただろう。そのくらい未知の体験だった。――「私」という存在が感じられないくらいに薄れて、自分自身という殻から解放されて楽になるような気がして、その不可思議な多幸感に身を委ねるとますます「私」は真っ白になっていき、その空白にはやく新しい言葉を流し入れたくて心がおどる。ごく幼いころに浮き輪につかまって海に入ったときのような心もとなさを覚えながら、思う――「私」という存在がもう一度生まれていくみたいだ。いや、思う、というよりは感覚的なもので、そういう心地がした、というのに近い。この時期、それから幾度かそんな体験をした。
 いま思えばあれは、語学学習のある段階に訪れる脳の変化からきているのかもしれない――言語というものが思考の根本にあるからこそ得られる、言語学習者の特殊な幸福状態というものがあるのだ。たぶん。pp.9-10

 

語学学習はおそらく、ネシー氏のいう「それまでに出会ったほかの誰とも違う要素をもつ人とのあいだに関係を築くこと」にちかい。というか、学ぶことは全般にそのようなものだと思う。変化をともなう。いわば未知との遭遇。出会いがうまくいけば、恋い焦がれるような不安混じりの充実感が訪れる。うまく出会えなかった場合は、ひたすら苦痛かもしれない。

良質な出会いにはきっと「する/される」のバランスが関係している。能動と受動のバランス。一方的に「する」ばかりでは虚しい徒労で、一方的に「される」ばかりでもうるさいだけだ。しながらされる、されながらする。そうした、相互的な感覚を得ると意欲が湧きやすい。これは人間関係全般にもいえる。

ロシア語を学習していたらふと、ロシア語が向こうから手を差し伸べてきた。奈倉さんがご経験なさった「不可思議な多幸感」は、そんな感触なのかもなーと想像する。自分ではない異質なものと、つながれる感触。最初の章につづられているこの回想が、さいごのほうでふたたび繰り返される。時間の断片を鮮烈に「つなぐ」構成がとてもよかった。

個人的に『夕暮れに夜明けの歌を』と、千葉雅也の『勉強の哲学』がリンクする。千葉さんは「勉強は変身です」と哲学的に説く。奈倉さんは具体的な物語のかたちでそれを伝えている。類書といって差し支えない思う。そして、これらの「変身」は冒頭に引いた「良質で密度の高い心理療法」とも関連していると、直感する。

 

 

寝る前に『なぜ心はこんなに脆いのか』をすこしずつ読む。ここ数日の日課。著者は心理学者で精神科医でもあるのかな。学問的な知見に加えて、診察から得られた経験的な知見もときおり挟まれる。それもまたおもしろい。たとえばこんな。


 クリニックで診察にあたっていると、人間の本性に関する考え方が彼らの人生や悩みに影響していることがはっきりとわかる。患者のパーソナリティを短時間で把握するために、私は一つの質問をしている。それは、「人間の本性とはどのようなものだと思いますか?」という問いだ。この人の治療はおそらく成功するだろう、と一番思わせてくれる回答は、「ほとんどの人は、ときには良いこともするし悪いこともします。状況による部分は、とても多いと思います」というものだ。だが実際のところ、より頻繁に耳にする答えからは、人類全体を含めたほとんどすべてのことを良いか悪いかで断罪しようとする、人間の強い傾向がみてとれる。「ほとんどの人は、良い人間だと思います。皆、できるだけ正しいことをしようとしているわけですから」と答える患者は、神経症傾向があることが多く、治療における関係性は良好なものになることが多い。一方で、「大体の人は自分のことしか考えていません。でも、そんなものですよね」というような答えを返す人は、親しい人間関係で問題を抱えていることが多い。pp.277-278


「人間の本性とはどのようなものか?」と診察で問うのだとか。このようなデカイ質問が許容される背景には、地域の文化的・宗教的な風土もあるのだろう。日本でやったらキョトンとされてしまいそう……。しかし、この質問は的を得ているように感じる。心的な世界像が端的に露出しやすい。

では、自分ならどうこたえるだろう。人間の本性? 人生いろいろ。などと言って、はぐらかしそう。「状況による」にちかい。そのうえで、「みんな正しい」とも思う。擁護ではなく、解釈方法(好意の原則)として。……あと、いま書きながらふと頭に浮かんだのは、詩人の田村隆一のことば。 


 喋る、朝から晩まで人間は喋る、なかには夜中に寝言を言うものまであろう。とにかく喋る。その大半が無意味な言葉の浪費であろうと、ぼくはとがめない。ぼくらは言葉の中で生まれたのだ。言葉に溺れないためには、模倣するのだ、美しい笑顔を、力強いリズムを、正確な発音を、ユーモアのセンスを、ぼくらの生まれた土地を忘れないために、土地の言葉、その習慣を、そのゆかしい挨拶を、ぼくらのあとからやってくる人間が模倣しやすいように、しっかりと模倣するのだ、画家が大芸術家の線と色彩を模倣するように、職人が親方のくせを真似るように、芸人が先代の師匠の噺を復元するように……人間が、真の意味の人間になるためには、喋って、喋って、喋りまくるのだ。もし戦争中のように、もし独裁国家のように、ぼくらのお喋りが盗聴されたり、統制されたりしたら、ぼくらは画一的なロボットになるだけだ、微笑みをうかべながら怒声がはりあげられるようなお化けになるだけだ、ぼくらは社会そのものを失うのだ。そして、ゆたかな、言葉の母体としての沈黙を味わうために、親しいものたちと、その沈黙を共有するために、できるだけ言葉をかわそう、時代を、空間を、人種を超えて、活力のある人間のリズムで、いきいきとした動作をともなって……。


つまり、模倣と伝達。それが「人間の本性」かなとわたしは思う。「人間が、真の意味の人間になるためには、喋って、喋って、喋りまくるのだ」。「言葉の母体としての沈黙を味わうために、親しいものたちと、その沈黙を共有するために」。

最初に書いていた。「創作的に生まれつく」と。模倣と伝達のなかで、つくりつくられながら生きる。自分の人間観はいまのところ、それに尽きる。


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