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日記861


古代の壁画に描かれていそうな染み。

 

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 生来の認知能力に介入し、それを意味のまだない方へ押し広げていくには、多かれ少なかれ痛みが伴うのだ。
 この最初の一歩を踏み出すとき、助けとなったのは、指や粘土、あるいは小石などの物だったと考えられる。古代の私たちの祖先は、頭のなかでは数を正確に描けないからこそ、頭の外に粘土を並べた。頭のなかでは曖昧に混ざり合ってしまう数量が、頭の外では、物理的に切り離されたままでいてくれたのだ。こうして彼らは、身体や物の力を借りて、生まれ持った数覚を少しずつ分節していこうとした。p.19


森田真生『計算する生命』(新潮社)より。数学嫌いや数学アレルギーについての文脈から、未分化な世界を分節化するには多少なりとも痛みが伴うのだと。いわば内と外を切り分ける痛み。ここを読んだとき思い出したのは、寺山修司のエッセイで読んだボルヘスのことばだった。『ボルヘスの世界』(国書刊行会)に収録されている。


子供の頃、夜の間に閉じた本の文字が、どうしてごっちゃになって消えてしまわないのかと、不思議に思ったものだ。


「頭のなか」と「頭の外」が未分化な感覚。こども時代の宝物のような「不思議」。というか、おとなになっても「頭のなか」と「頭の外」はそれほど分かれていないのではないか。こどものころほどではないにせよ、未分化なところは残ると思う。この「未分化な感覚」は、人によって程度の差がある。数学が得意な人と、苦手な人がいるように。

人間って、いくつになっても幼さが残っている気がする。誰でも、例外なく。曖昧に混ざり合ってしまう感覚が残っている、といってもいい。ここに思いが至るたび、人類ネオテニー説を想起する。


1920年にルイス・ボルクが「人類ネオテニー説」を提唱した。チンパンジーの幼形が人類と似ている点が多いため、ヒトはチンパンジーのネオテニーだという説である。すなわち、ヒトの進化のなかで、幼児のような形態のまま性的に成熟するようになる進化が起こったという。 
ネオテニー - Wikipedia

Wikipediaでは「進化のなかで〜進化が起こった」とされているが「退化」としたほうがわかりやすいと思う。つまり、ヒトは進化の過程で知性を発達させたのではなく、幼形を保つ退化の過程で知性を発達させたのではなかろうか。わたしたちはいつまでも完成しない、可塑的な存在だ。曖昧で、中途半端で、未分化で、ごちゃごちゃしている。どうしようもなく幼い個体の群れ。だからこそ、変化に耐えうる柔軟さがある。のらりくらり、ぐんにゃりできる。ヒトは歴史のどこかで、分かれないように分かれた。そんな気がする。

前回の記事の延長でいえば、これもまた個人的な「人間観」のひとつだろう。というより、このブログは「人間観」をえんえんつづっているだけだな……。それをすこしずつアップデートさせている。「日記」から「人間観」にタイトルを変えたほうが正確か……。

ヒトには大きくふたつ、分ける知性とつなぐ知性があると思う。分化と未分化。三歩進んで二歩下がる!みたいな、凡庸なことをずっと考えている。行きつ戻りつ。ことばを使って分けながら思考を進めつつ、そこまで考えていない意味不明な部分でわたしたちはつながれる。絶えざる分離と混同の渦中に右往左往しつづける。

「意味は後から浸み込んでいく」と森田さんは書いていた。上記の次のページ。

 

 指にせよ、粘土にせよ、それは少なくとも当初は、意味がまだないまま動かしてみるしかないものだった。参照すべき意味解釈がないまま、それでも指を折り、粘土を動かす。幼子は4の概念を理解できるようになるはるかまえから、四本の指を立てられるようになる。まだ意味のないこの動きに、意味は後から浸み込んでいくのだ。
 計算において、自分が何をやっているのかを「わかる」にこしたことはない。だが、まだ意味が「わからないまま」でも、人は物や記号を「操る」ことができる。まだ意味のない方へと認識を伸ばしていくためには、あえて「操る」ための規則に身を委ねてみることが、ときに必要になる。このとき、「わかる」という経験は、後から遅れてやってくるのだ。

『計算する生命』p.20


よくわかんないまま、ぴょっと飛び出してしまう。あらゆることの始まりは事故のようなものではないか。ちょっとした偶然。ときに痛みを伴う偶然。ことの始まりは事故であり、そこで生じた痛痒だ。「なぜブログを書くのか」「なぜ写真を撮るのか」とたまに聞かれることがあるけれど、わからないままつづけている。なにかの修行だと思う。あるいは痒み。

きっと読む人も「こいつなんなの?」とわからないままだろう。肩書不明の、よくわかんない人がたくさんいる。それがインターネットの魅力だと、はじめて触れた中学生のころから一貫して感じている。何事も「わからない」が標準で、「わかる」という確信がすこしでも得られたとすれば、それは妙なる僥倖でしょう。


 

11月24(水)

代々木上原から表参道までふらふら歩いた。人を見ているだけでおもしろい。撮影中のモデルさんみたいな若者をちらほら見かけた。それを横目に落ちてたおにぎりを撮る。夕方、画家の丹野恵理子さんの個展に立ち寄った。前々からinstagramでつながりがあって、行きたいと思っていた。しかしどうやってつながったのか、きっかけが思い出せない。

すこしお話をする。ギャラリーで在廊中の作家さんと話す、というシチュエーションは何度か経験しているけれど、100%戸惑う。観客という存在の謎を痛感してしまう。なぜ絵を観に行くのか。謎なことをしている。謎というなら、作者の存在もギャラリーという空間の存在も謎だ。なぜ絵を描くのか。なぜ絵を展示するのか。絵とは何か。謎が謎を呼ぶ。そうか、謎に呼ばれたのか。かわいいポストカードを買って帰る。とても満足。

そこから渋谷神山町の書店SPBSまで歩いて本を買う。〈第3回〉おもしろヤング坊主(OYB)、藤井兄弟と選ぶ読書の秋フェア 、恒例化しているみたい。まいとしSPBSに行く習慣ができた。ほとんど年に一回しか行かない。選書のなかから、ことしは諸隈元『人生ミスっても自殺しないで、旅』(晶文社)を買って帰る。ちょうど読みたかった。だいたい諸隈さんと似たり寄ったりな引きこもり人生なので、なにか通じるところがあるかなと……。

前に書いた「わたしの連続性を担保するものとは何か」という問いは、「なぜわたしは自殺しないのか」と言い換えることもできる。ちらっと読んだところ、諸隈さんは最初に「僕個人は、断固として自殺を否定します」と立場を明確にしている。ここを読んで、近田春夫が「人間なんてどんな人でも一日に一回くらい自殺したいと思うのがふつうだって、そのほうが気が楽じゃん」と笑いながら話していたことを思い出した。

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