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日記862

 

自分の体の扱いもコミュニケーションのひとつだと思う。つまり、ずれがある。勝手に太ったり痩せたりする。ちょっと待ってよと言いたくなる。ずれがあるところには、どこにでもコミュニケーションの余地が生まれる。外見にかぎらず、感情的な部分もそうだろう。なんでこんなにかなしいのか、たのしいのか。自分のなかのずれをつぶさに見ることで、きっと他人とのコミュニケーションも捗る。

合う、から話すのではない。ずれるから話せる。原理的にそうなんとちがうかな。あんまりずれを意識しすぎてもつらいので、いいところで黙しておくこともたいせつ。ずれへの意識が過剰だと、ことばも過剰になる。沈黙もふくめてコミュニケーションだと思う。ほどほどに言って、ほどほどに言わない。でもそれがけっこうむずかしい。多すぎたり、少なすぎたり。書いては消し、書いては消し。

ことし前半、妙に体が痩せてしまった。危機感にとらわれてもりもり食べていたら、さいきん持ち直した。正確には9月あたりから、やべーと思い始めた。いまがもっとも適した状態かもしれない。多くも少なくもない、透明な状態。まったき健康体。それはそれでさみしいのよね。いないみたいで。わざとバランスを崩したくなる。いじわるしたくなる。やあね。

ひとつ目的が解消されたあと、次にどうするか。そういう話だと思う。大きくふたつの方向がある。すっぱり転換するか、もう必要ない既存の目的にずるずる縛られてしまうか。

「わざとバランスを崩したくなる」という気持ちは、過去への執着といえる。役に取り憑かれる、というか。孤独だとそうなりやすい。役がなくなったのなら、我に返ればいい。食事を食事として、きちんと味わう。欲望のかたちを変える。「必要」から逃れる。いまならそれができる。

「コンディションの良さ」を退屈に感じる人は意外と多いのではないか。そよ風に対して、わざわざ大きなリアクションをしてまわるような。じたばたしたがる。そんなことしなくていいのに。逆説的だけど「不安がないと安心できない」みたいな心象はある。こんなに調子よくて、いいんだっけ? という。不安は、心のおしゃぶりのようなものだ。

ところで、きょうはいい天気だった。いい天気。だから? それで? いや、それだけ。ここで納得したい。それ以上でも以下でもない。いい天気だった。うん。これより先は言い過ぎになる。しかし、やはり、とてもいい天気だったね。言い過ぎたって、かまわないくらいの。

多すぎたり、少なすぎたり。その勢いづく、押し殺す「余り」を感情と呼ぶのだと思う。「いい天気だった」のひとことだけでは気が済まない。納得できない。もっと言いたい。その先に感情が宿る。あるいはうまく言えない、ことばを失う淀みに。

「感情的」というと一般に騒がしいイメージが先に立つけど、それだけではない。言い得ないこと、黙して語らないことも、ひとしく感情的だ。ファクトを超過する感情と、ファクトに追いつけない感情がある。そして単なるファクトがある。

ヒトの現実はファクトのみでは成立しない。部分の総和がそっくりそのまま全体になるわけではない。つねに多すぎたり、少なすぎたりする。どちらかといえば、ファクトから派生する「余り」によって人々はつながれているのではないか。最初に書いたように、ずれるから話せる。伝言ゲームはむずかしくて、だからこそたのしい。

「わかっちゃいるけどやめられない」ということばが好きだ。わかるけどわかんない、みたいな。ぐるぐる回る感じが大事やと思います。頭はわかるけど、体はわかんないって話か。そうなんだよなー。頭も体のうちだけど。わかるもわかんないのうち。ともいえる。

……だんだんなにを書いているのかわかんなくなってきた。なんだっけ。このような脳内会議を果てしなくつづけている。散漫な散策。ずれはあらゆるところに生じるから。勘定が合わない、まいにち。


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